2015.06.16 Tuesday 16:32

安保法制と戦後日本の総括

 安全保障法制の国会審議が始まった。その冒頭、527日に安倍晋三首相は集団的自衛権の行使の際に他国の領域における武力行使の可能性があることも認め、戦時の機雷掃海のみを例外としてきた従来の方針を転換した。質疑の中では、武力行使が現実化する様々な例外が次々と繰り出され、一連の法制が武力行使の歯止めにならないことが明らかになっている。安倍政権が目指す安全保障政策の転換は、日本の戦後の歩みをどう評価するかという問いと密接に関連する。70周年の敗戦の日に向かって、我々は戦後史の意味と、日本の国家路線とを合わせて考える必要がある。


安倍首相は、5月の訪米の際、議会で演説し、米国の政治家や国民に向かって、戦後日本の民主政治の安定と繁栄を誇り、それは米国と価値観を共有し、協力してきたから可能になったと述べた。彼の指摘は正しい。日本は、事実上米国が原案を作った憲法の下で、民主主義と繁栄を実現した。この筋書きは、ポスダム宣言で示された日本再建の路線そのものである。党首討論で、安倍は志位和夫共産党委員長の質問に答え、ポツダム宣言を審らかに読んでいないと言った。読んでいないのは勉強不足だが、自分が米国で誇らしげに語った戦後日本の歩みがポツダム宣言に由来することくらいは認識しておくべきである。


安倍はかつて、現行憲法を「みっともない」と呼び、憲法改正こそ自らの使命という信念を持っている。彼が自己の確信に忠実であるなら、米国で憲法を押し付けられたことに抗議し、いち早く自主憲法を作ると宣言すべきである。しかし、彼にはそのような度胸はない。米国に向かっては戦後の民主体制を作ってくれたことに感謝し、日本に帰ったら憲法改正を唱える。まさに安倍は不誠実この上ない政治家である。安倍における分裂症こそ、白井聡氏の言う永続敗戦体制の本質である。


集団的自衛権の行使容認に対して、日本が他国の戦争に巻き込まれる恐れがあるという批判がある。これについて、安倍は514日の記者会見の中で、過去の安保条約をめぐる論争を振り返り、巻き込まれるという批判が的外れであることは、歴史が証明していると言った。この点でも彼は戦後史を正確に理解できていない。


彼が尊敬する祖父、岸信介が日米安保条約の改定ののち、宿願であった憲法改正と国軍設置にまで成功していたら、日本は1960年代末から、韓国と同じようにベトナム戦争に米軍とともに参加する羽目に陥っていたに違いない。日本が戦争に行かなくて済んだのは、1960年の安保闘争で市民が岸信介首相を退陣に追い込み、戦後憲法体制を守ったからである。憲法9条が存在し、集団的自衛権の行使を禁止したからこそ、日本はベトナムに派兵せずに済んだのであり、米国も日本にそのような要求をすることは無理だとわかっていた。60年の市民の運動は、それ以後の自民党政権にも大きな教訓をもたらした。自民党も国民もイデオロギー闘争ではなく、現行憲法が保障する民主政治と市場経済の体制の中で、経済発展に専心することで、繁栄は実現できたのである。


昨年7月に、安倍政権が憲法9条の解釈を変更し、集団的自衛権の行使を可能にした時、首相は日本人の生命、安全を守るために必要な限りで、武力行使を行うと説明した。しかし、今回の安全保障法制では、話がすり替えられ、「平和」を作り出す作業について日本も一端を担うことが武力行使の目的とされている。安倍政権は積極的平和主義というスローガンの下、後方支援、つまり兵站を通して米国等の友好国が繰り広げる平和の敵を成敗する戦いに参加し、地球上のどこへでも出かけると意気込んでいる。しかし、歴史を振り返ればベトナム戦争からイラク戦争に至るまで、米国が平和のためと称して始めた戦争は大義のない武力行使であった例がある。だから、米国と一蓮托生で武力行使をすることは、日本自身の安全とは無関係である。


 半世紀前とは安全保障環境が違うという議論もある。中国の台頭は事実である。それにしても、日本は個別的自衛の枠組みの中で安全保障政策を考えればよいのである。地球の裏側にまで自衛隊を派遣すれば、それだけ領土、領海の防備はおろそかになる。日米同盟の強化による抑止力強化と政府は繰り返すが、米国の指導者は尖閣諸島をめぐる日中間の対立は平和裏に解決せよと繰り返し述べてきた。外交努力なき防衛力強化は、むしろ緊張を高めるだけである。また、自爆をいとわないテロリストとの戦いの中では、抑止力は無意味である。自ら平和を作り出すための外交を展開するためには、第2次世界大戦に関する歴史認識について世界の常識を共有することが大前提となる。それなくして、中国が歴史認識を武器として利用するのを抑え込むことはできないからである。


 結局、安倍首相の頭の中では、戦後憲法体制を破壊することがそれ自体目的となっている。安全保障法制はそのための手段である。だから、防衛政策の枠組みとしては矛盾に満ちたものなのである。自分の主観的満足を目的とする安倍首相は、矛盾を指摘されても何ら痛痒を感じない。このような状態こそ、日本の立憲民主主義にとっての存立危機事態である。


 安全保障法制をめぐる国会審議は、これからの日本の民主主義の命運を左右する大きな分岐点となる。「戦争は平和だ」というジョージ・オーウェルの言う新語法が定着すれば、今後日本で民主的な討論は成立しなくなる。与党の圧倒的な数的優位の中、法案成立を阻止することは難しい。しかし、結果はともかく、法案審議の過程で政府指導者の思考能力喪失と不誠実さを暴き出すことには意味がある。このような政権を持続することが、日本人の生命と安全に資するかどうか、国民に真剣に考えさせることこそ、野党とメディアそして言論人の責務である。


週刊東洋経済6月12日号


2015.04.04 Saturday 20:29

政治家と価値観

 新年度予算が衆議院を通過し、国会論戦のテーマは安保法制の整備に移ることとなる。安倍晋三内閣は、昨年71日の集団的自衛権行使容認の閣議決定を具体化するのみならず、自衛隊の海外派遣を広範に可能にするという法律整備を打ち出している。自民、公明両党が協議を続けているが、政府自民党が過大な提案をし、公明党の出番を作る形で若干の修正をするという出来レースのようである。安倍政権は、平和国家あるいは町人国家と言われた戦後日本という国の性格を変え、国際社会におけるサムライの仲間に入ることに執心している。ナショナル・アイデンティティ(国是)をめぐる政治が70周年の終戦の日に向かって政治の大きな争点となるであろう。

 たんに武力を行使したいというだけでサムライの仲間に入れてくれと言っても、他国は相手にしてくれない。したがって、実力行使には何らかの大義名分が必要となる。この政権が価値観の問題について従来の政権よりもはるかに雄弁なのは、その点に由来する。

 政治は一面で権力をめぐる争いであり、綺麗事だけでは通用しない。それだからこそ、規範や建て前が重要となるということもできる。綺麗事を一切否定すれば、政治は単なる野獣の行動と同じになるからである。過去の歴史の中で権力者が虐殺・粛清や差別を行ったことは、今日では絶対的悪として否定されている。また、人間の尊厳や自由という基本的価値に帰依することは、政治家が文明社会の一員とみなされるための絶対的必要条件となる。その点で、主義主張は違っても政治の土台となる価値を共有するという気風を培うことは、日本では戦後70年たってもできていない。

 衆議院予算委員会における質疑を見ても、安倍という人は価値観を語るに足る知性、品性を備えていないと痛感させられた。民主党の議員が西川公也前農水相の政治献金問題を質しているときに、安倍首相は日教組の献金はどうするのとヤジを飛ばした。首相は日教組が事務所を置く日本教育会館から民主党議員に政治献金が行われているので相打ちだと言いたかったようだが、そのような事実は存在しない。つまりこれは単なる言いがかりである。9年前に民主党の若手議員が偽メールをもとに、自民党幹事長が裏金をもらったと追及したことがあったが、首相のヤジもそれと同列である。ただし、首相の場合は虚偽が判明した後も悪びれることなく、遺憾の意を表明しただけであった。他人の意見をよく聞いて議論しようとか、嘘や偽りで他人を貶めてはいけないというのは、小学生に教え諭す議論のルールである。つまり、わが国の首相の品性は小学生並みということである。

 安倍首相が民主主義や人権という価値を共有すると主張しても真剣さが伝わってこないのは、価値観をめぐる言動と実践の間に大きな距離があるからである。先日、曽野綾子氏が南アフリカのアパルトヘイトを例に出して、人種隔離を是認する文書を新聞に書いた。アパルトヘイトそのものをどう思うかと言われれば、政治家はみなこれを否定するだろう。しかし、アパルトヘイトを是認するような人物を政府の主要な審議会のメンバーに据えることは、アパルトヘイトを容認することを意味する。それが世界の常識である。曽野という人が人権や差別についてどんなことを言ってきたかは明らかであり、政治家の側が知らなかったと言い訳できる話ではない。どこの国にも差別を肯定する人間はいるものだが、そうした人々は政治の中で居場所を与えられないキワモノである。日本の場合、キワモノが権力と近い所に位置し、影響力も持つ。だから、日本の政治家は人間の尊厳という価値について真面目ではないと映るのである。

 言論の自由についても、安倍政権が実際にしているのは、たとえばNHKの会長と経営委員の人事に介入して、自分と親しい人間にNHKをコントロールさせることである。最近、経営委員長代理を退任した上村達男氏は籾井会長の発言が放送法違反だとはっきりと批判していた。これは異常事態であり、それをもたらしたのは政権の人事介入である。

 価値観にかかわる政治課題として、戦後70年談話と憲法改正の2つがこれからの大きな争点となるだろう。憲法改正については、最近自民党の推進派の主張がやや柔軟化している感がある。9条や人権規定など、自民党らしさが表現される部分よりも、環境権や私学助成など抵抗の少ない部分を先行させるという主張が相次いでいる。自民党の改憲草案は国民の理解を得られるものではないと、自民党の政治家自身が理解しているのであろう。

 70年談話については、この談話のありかたを論じる有識者会議の座長代理である北岡伸一氏が昭和の戦争について日本の侵略という性質は明らかと主張している。北岡氏の思いは、歴史認識についてのグローバルスタンダードを日本が共有したうえで、まさに価値観の土台の上に安定した日米の同盟関係を構築したいということだろう。日本が世界のサムライの仲間に入れてもらうためには、過去の戦争を正当化してはならないという厳しい現実を北岡氏は安倍首相に伝えたいのだと私は理解している。

 安倍首相が価値観を前面に打ち出すことは、実は自ら大きなリスクを作り出していることを意味する。彼が技量のある政治家で、自分の個人的思いと日本の指導者としての役割とを区別する知性と策略を持っているなら、北岡氏の建言を容れて、安倍らしからぬ談話を出すはずである。安倍首相が個人的な思いに固執して、世界の常識と相容れない価値観を正直に打ち出せば、それは日本に対する不信を招来し、安倍首相の権力基盤自体も大きく揺るがすことになるだろう。

 価値観に触り、それを争点化するということは、政治家の知的器量がじかに問われる場面を作り出すことになる。


週刊東洋経済3月28日号


2014.10.29 Wednesday 17:48

時代に逆行する安倍政治

 

 先月の本欄で、私は日本版マッカーシズムの出現と書いたが、世の中の風潮は依然として殺伐としている。右翼の脅迫状ではなく、有名な出版社の雑誌や本に、国賊、売国奴といった言葉が使われている。言論における品位やマナーが消えうせたようである。


 意見を異にする者を公平に扱うということは、近代社会の最も重要なメルクマールの1つである。明治初期に『明六雑誌』に加わった西村茂樹という思想家は、「賊説」(岩波文庫版『明六雑誌(下)』所収)という論説を1875年に発表している。これは今読んでも興味深い。西村は大略、次のように述べている。賊という字は、殺人、強盗を働く者の意味であり、君主に敵対する者を指す語ではない。そうした用法は古い中国の悪習であり、中国の驕りを笑う日本人が同じ言葉を使うのは奇妙である。君主に敵対する者の中には、暴政を止める、人民を救うという動機の者もおり、これを賊と呼ぶのは適当ではない。君主を助ける者の中にも賊と言うべき者はいる。


 21世紀の日本で国賊などという言葉を使う者は、近代国家にふさわしい言論空間を作るために苦労していた先人の知恵を想像すべきである。やみくもに自国を正当化するのが愛国の所業ではない。自国の歴史を虚心坦懐に振り返り、罪を潔く認め、償いをすることこそ、日本の名誉を保つ。対立する論争相手を国賊と罵倒するということは、日本の言論が明治以前に逆戻りしたことを意味する。言論に携わる者は、須く頭を冷やして、言葉遣いを正すべきである。


 安倍首相が内閣改造を行って以後、政権支持の浮揚を期待された女性閣僚が公職選挙法の初歩的なルール違反や、極右団体との関係で、政権の足を引っ張る形となっている。閣僚が地元の有権者に金品を供与するなど、言い訳のできないルール違反であり、小渕経産相も松島法相も閣僚の資格はない。


しかし、高市早苗、山谷えり子両大臣の極右団体とのつながりのほうが、問題は深刻である。それらの極右団体は人種差別を公言し、在日韓国・朝鮮人に対する脅迫や嫌がらせを繰り返し、中には罪に問われた者もいる。山谷氏が一緒に写真に納まったのはそのような犯罪者の一人である。同氏は、外国特派員協会における講演の際、外国人記者から在特会の政治活動に関する認識を問われ、評価を回避した。


朝日新聞の報道よりも、大臣のこのような態度の方が日本の名誉を傷つけている。民主主義国の指導的政治家は、自由や多様性を脅かすテロリズムと常に戦う義務を負う。高市、山谷といった政治家が本当に自由と民主主義を守るなら、ネオチや在特会などの極右集団を断罪しなければならない。それらの集団にも「言論の自由」を認め、価値相対主義の範疇で存在を認めるという態度を取れば、そうした政治家は自由の敵とみなされるのが欧米の常識である。


安倍首相は、中国に対抗する意図を込めて、日本は自由、民主主義、基本的人権、法の支配などの価値観を欧米と共有すると繰り返し述べてきた。さらには、地球儀を俯瞰する外交を展開して、国連安保理の常任理事国入りも目指すと報じられた。救いがたい愚鈍さと自己中心主義である。


常任理事国は第2次世界大戦の戦勝国による排他的クラブである。第2次世界大戦における侵略や蛮行を否定するような国家指導者が、常任理事国に迎え入れられるはずがないではないか。人種主義と歴史修正主義に親近感を持つ閣僚を多数抱える内閣のトップが、自由や民主主義を口先で唱えても信頼されるわけはない。首相は、朝日の誤報によって日本の名誉が傷つけられたと言っているが、これも外から見れば的外れである。日本を不可解な国にしているのは自国の過去の罪業を否定しようと躍起になっている政治家である。


日本政治について、国の内外でメディアの評価が大きく乖離している。国内メディアの一部は朝日攻撃を繰り返し、日本は潔白な国だというナルシシズムを広めようとしている。海外のメディアは、安倍政権が自由と民主主義の担い手であるかどうか懐疑的になっている。情報化とグローバル化が進んでいる今日、日本のメディアがこれほどまでに冷静な自己認識を失っているのは、奇妙な話である。外交官・石射猪太郎は、19379月の日記の中で、「外字新聞を見ねば日本の姿がワカラヌ時代だ」と書いたが、情報化とグローバル化の進んだ現代も同じ時代となった。


政治学者、丸山真男は最晩年にオウム真理教によるテロ事件を見た。その後、教え子が集まった場でそれについて次のような感想を述べた。自分はオウムの信者を見ても、驚かなかった。第2次世界大戦のさなかは、日本全体がオウムのようだったからだ。丸山は、日本社会に画一主義(conformism)の土壌があり、それが猛威を振るうとき自由や民主主義は吹き飛ばされると言いたかったのであろう。


前回の本欄で米国のマッカーシズムについて触れたように、画一主義は欧米でも起こりうる。だが、欧米には復元力も存在する。日本で復元力を働かせるためには、与党内の良識派や野党の政治家が声を上げることが必要である。また、メディアや学者も報道の自由や学問の自由をこういう時こそ発揮しなければならない。


小渕経産相、松島法相の辞任は安倍政権の動揺を招くであろう。しかし、小渕氏や松島法相の金品供与問題のかげで、極右勢力と親密な女性閣僚が延命するならば、日本政治の劣化は一層進むことになる。高市、山谷両氏は秋の例大祭で靖国神社に参拝したわけで、首相としてもこのタイミングでの責任追及は考えていないだろう。政党政治が腐敗、無力化し、メディアや大学が右翼の脅迫によって萎縮し、批判的知力を失っていき、最後は国民自らが自由と民主主義を放棄するという80年前の失敗が現状と重なって見える。


週刊東洋経済10月25日号


2014.09.25 Thursday 17:43

多元的民主政治の危機

「週刊東洋経済」最新号に載せたコ

日本版マッカーシズムについて論じている


 朝日新聞が、従軍慰安婦問題や吉田昌郎・元福島第一原発所長の証言について誤報を行ったとして謝罪や記事の撤回をしたことから、右派メディアや政治家の朝日新聞攻撃が激化している。これは一新聞社のありかたにとどまらず、日本における政治的言論の行方、さらには民主政治の方向に大きな影響を与えかねない問題である。

 事実を報道することを使命とする新聞社が誤報について謝罪、訂正するのは当然である。また、池上彰氏の朝日に対する批判的な文章を掲載しないとした編集局の当初の判断は、言論の自由に関する見識を疑わせた。

それにしても今、嵩にかかって朝日を攻撃している読売、産経の両紙の姿は、はっきり言って異常である。両紙ともに数々の誤報を行った。たとえば、読売は菅直人首相(当時)の指示によって福島第一原発への海水投入を中止させたと報じたが、これは誤報である。さらに、当時野党議員であった安倍晋三氏はこの新聞報道等をもとに、ブログで菅氏を非難した。安倍首相については、昨年のオリンピック招致の際の「原発の汚染水はアンダーコントロール」という嘘も記憶に新しい。読売や安倍氏がこれらの誤りについて謝罪、訂正したという話は、寡聞にして知らない。従軍慰安婦を強制的に連行したという吉田清治証言については、産経新聞も同様に報じていた。同じガセネタをつかまされて同じ誤報をした自分の責任には触れず、もっぱら他紙を叩くなど、まともなジャーナリズムのすることではない。

 自民党の政治家及びこれを応援するメディアは嘘をついても反省もせず、非難も受けない。自民党に批判的なメディアについては、体制寄りのメディアと政治家が部分的な誤報をこれでもかとばかり批判し、報道全体の信憑性を否定しようとする。そして、批判的メディアは委縮していく。

 この構図は、1950年代にアメリカで猛威を振るったマッカーシズムと同じである。当時のアメリカでは、ソ連や中国の台頭に対する危機感が広がり、議会で非米活動の追及が行われた。その先頭に立ったのがマッカーシー上院議員であった。そして、共産主義シンパとみなされた外交官、学者、俳優などが職を追われた。でっち上げや偽証に基づく追及も多かった。

非米を反日、共産主義を韓国や中国に置き換えれば、現在の日本の風潮そのものとなる。実際、朝日新聞で慰安婦問題を追いかけてきた元記者は、退職後ある大学の教授に就任する予定だったが、大学に対する右派メディアと右翼の執拗な攻撃、嫌がらせによってその話はつぶされた。この元記者は別の大学で非常勤講師を務めているが、その大学にも嫌がらせが殺到し、仕事を続けられるかどうか危ぶまれている。今の大学人は、学問の自由や表現の自由を守るために権力や社会的圧力と戦った経験を持たないので、原則を簡単に曲げる場合もある。

問題は、日本にエド・マーローがいるかどうかである。ジャーナリストのマーローはマッカーシズムの虚偽を見抜き、自らがホストを務めるCBSテレビの番組でマッカーシーを追及した。映画『グッドナイト・グッドラック』は、マーローの戦いを描いた作品である。これを契機にマッカーシーの権勢は急速に衰退し、上院で非難決議を受けた。マーローはアメリカ社会の復元力の象徴である。日本のマーローを探すというのは他力本願の話で、学者もジャーナリストも、自由で多様な言論空間を守るために発言を続け、それぞれがマーローの果たした役割を今担うという覚悟を持たなければならない。

特に重要な課題は、問題の全体像を的確に把握する作業である。朝日の誤報責任は重いが、一部分が否定されたからといって、慰安婦や原発に問題がなかったことにはならない。一部分の誤りによって全体を否定すれば、過去の戦争を正当化したいとか、原発を一刻も早く再稼働したいと願っている特定の勢力に都合の良い結論を導くだけである。

吉田清治証言が主張した暴力的な誘拐による慰安婦調達という話は嘘だった。だが、それは慰安婦問題がなかったことを意味しない。国際社会は、多くの朝鮮半島出身の女性、さらにインドネシアにいたオランダ人女性が、人身の自由を失った状態で兵士の性欲処理のために酷使されていたという事実を問題にしている。それは、安倍首相自身が言う「女性の人権」の問題なのである。狭義の強制の不在を主張したところで、何の意味もない。

吉田昌郎調書の最も重要な点は、現場責任者が福島第一原発の現状を見て東日本壊滅の危機だと認識したことである。吉田調書の一部を組み立てて、現場職員が英雄的に頑張ったという物語を作ることも、事実の否定である。むしろ、東電幹部の証言も含め、あらゆる情報を公開して、事実を正確に記録することこそ、現代の日本人が世界や次の時代に対して果たすべき責任である。

民主主義という政治体制は、意見が異なっても政治的競争のルールとなる基本原則を皆が承認することによって成り立っている。言論、報道、学問に関する自由は、その中でも最も中心的な原則である。権力者とそれを翼賛するメディアの嘘は放置され、批判的なメディアや学者の議論が抑圧されるという状態が深刻化すれば、日本は権威主義国家になってしまう。改造内閣の閣僚や党役員がネオナチを自称する団体と記念写真に納まっていることが報じられている現在、外国ではすでにそうした見方が広まっているのかもしれない。

もちろん、今の時代、権力が直接的に言論を弾圧するということは想像できない。しかし、右派的な新聞、雑誌、さらには過激な大衆運動を放置し、その圧力によってメディアや言論人に自主規制をさせることで、一元的な社会を作り出すというシナリオは現実的なものである。戦後70年が近づく今、日本の自由と民主主義がそれほど強固なものではないという現実が見えてきた。ひるまず発言を続けなければならない。


週刊東洋経済9月27日号


2014.09.25 Thursday 17:40

戦後日本の欠落とは何か

ちょっと前に書いた「週刊東洋経済のコラム」

歴史認識が政治争点となる今、議論の材料となればと願う。


 来年は戦後70年である。社会党委員長であった村山富市首相の下で戦後50年を迎えた時と比べて、この20年ほどの間で、戦争と戦後の意味づけ方が、政治家の中でも、一般世論においても、大きく変わったことを痛感する。それは、日本と近隣諸国との関係にも、日本自身の憲法や安全保障をめぐる政策にも、大きな影響を与えている。815日を迎えようとする今、もう一度、戦争と戦後の意味を考えてみたい。

 戦後50年の前後、私は村山政権の動きを近くで見る機会を得た。戦後50年の節目で、日本がアジア諸国を侵略し、大きな被害をもたらしたことについてきちんと謝罪し、以後歴史認識を政治争点化させないようにすること、それをもとに真に未来志向の日中、日韓関係を作り出すことは、あの政権の最重要課題であった。そのような思いで、村山談話が作成された。自民党の中には反発もあったが、加藤紘一氏などの保守内リベラル派が党内を取りまとめた。また、日本遺族会会長でもあった橋本龍太郎氏も、侵略という言葉に異を唱えなかった。

 これで戦争の歴史に関して、保守と革新の歴史的和解が成立したと、私は感銘を覚えた。革新の側は自衛隊違憲論を捨てて、保守の側は、戦争で多大な犠牲を出したことについて近隣諸国に対して謝罪、反省するという姿勢を確立したはずであった。両者の歩み寄りによって、以後日本の政治では歴史や憲法価値が政治争点ではなくなり、社会経済的争点について建設的な政党間競争が展開されると、私は期待したのである。

 しかし、その期待は外れた。自衛隊違憲論の旗を降ろした革新勢力は見る見るうちに衰弱し、消滅寸前である。他方、保守の中ではリベラル派が激減し、歴史認識について世界標準を拒絶する唯我独尊的ナショナリストが主流派となった。ナショナリストは、まさに戦後50年のころから捲土重来を期した運動を広げ、自民党の中枢部を占拠するに至った。

 なぜ、革新が消滅し、穏健派が周辺化されたのか。そのヒントは、白井聡氏の『永続敗戦論』(太田出版)が提供してくれている。白井氏は、戦後日本が一貫して敗戦という事実から目を背け、欺瞞の中に引きこもっていたことを指摘する。米国との関係では、冷戦構造の中で従属的パートナーとなることで敗戦を否認し、アジアとの関係では圧倒的な経済力を誇って敗戦を否認してきた。右派の得意な歴史修正も戦後レジームの批判も、米国が許容する範囲内で、国内向けにのみ行われてきた。

保守内リベラル派の「9条、自衛隊、安保を共存させる」という専守防衛路線も、永続敗戦体制の一部であった。それは、冷戦構造と日本の経済的繁栄という特殊な歴史的事情の上に成り立った僥倖であり、思想や戦略に鍛え上げられてはいなかった。冷戦が終わって局地的に暴力が頻発するようになったとき、9条はいかなる意味を持つのか。日本がアジア唯一の経済大国の地位を失った時に近隣の国々といかにして対等な関係を作るのか。今まで憲法を擁護してきた側は十分な答えを出せなかった。

村山政権のモットーが「人に優しい政治」であったことに象徴されるように、護憲・リベラル派は国家の権力性を後退させ、無害な国家を是としてきた。しかし、オウム真理教によるテロ事件、北朝鮮による拉致事件の発覚、中国の軍事的台頭、そして東日本大震災と福島第一原発事故など戦後50年以降には、むしろ秩序を維持するために強い国家権力が必要であると思わせる出来事が相次いだ。こうした状況の中で、控えめで無害な国家を目指す戦後平和主義の路線は、次第に支持を失っていった。

安倍晋三政権による集団的自衛権の行使容認という転換は、この20年間の護憲・リベラル派とナショナリストの力関係の逆転の到達点であった。権力性を持った国家を回復することはナショナリストの念願であった。しかし、憲法改正や核兵器の開発など外形的な行為によって日本が一人前の国家になれるという彼らの信念も、大きな錯覚である。国民と主権を守るという覚悟が欠如している点では、ナショナリストも所詮は戦後政治の枠内でしか生きていない。そもそも戦後70年にもなろうとしているのに、中、露、韓三国との間で国境線紛争を引きずっていること自体、日本の政治家が世界政治に乗り出す意欲を持っていなかったことの帰結である。

311への対応にそのことは明瞭に表れている。仮に、ナショナリストが潜在的核保有国として原発を維持したいと思うなら、また、国土の一部を毀損し多くの国民を流民にしたことに責任を感じるならば、原子力政策を原子力ムラという倫理観と公共心を欠いたエゴイスト集団に任せられないと怒るはずである。責任者を粛清しつつ、新たな推進体制を構築しなければ、原子力政策は政治的に維持できない。その点を理解せず、ムラの復活を容認するなど、日本の為政者が真の権力政治家になれていない証拠である。

もちろん、戦後民主主義と平和を擁護してきた側は、敗戦経験という政治的資源が消尽する前に、平和主義の思想を確立することが必要である。その際に必要なことは、権力を適切に行使して、国民を守るという覚悟を組み込むことである。それは、軍事力を増強したり、他国を敵視したりすることを意味しない。理非曲直を明らかにし、歴史の審判に耐えられるようにすることが、権力者に不可欠の心構えである。

民主党政権が権力を担えないひ弱さを露呈し、安倍政権が戦後レジームからの脱却に踏み出すに及んで、従来平和と民主主義を叫んできた側も、平和国家を担う強靭な権力者をいかに作り出すかという課題に逢着したということができる。従来の護憲リベラルを超える理念を構築することが急務である。


週刊東洋経済8月23日号


2014.04.26 Saturday 17:41

政治における競争

  この一か月ほどの間、野党の迷走が相次いだ。渡辺喜美氏は、資金疑惑のためにみんなの党代表の辞任を余儀なくされ、この党は存続の危機に直面している。日本維新の会と結の党は衆議院での野党第一党の地位を獲得するために統一会派を結成しようとしている。しかし、これは数合わせのご都合主義でしかない。日本維新の会の石原慎太郎共同代表は都知事選挙に立候補した田母神俊雄氏に政界進出を呼び掛け、彼はこの党を極右勢力にしたがっているようである。集団的自衛権の行使に対して慎重な姿勢を示す結の党が日本維新の会と合体するなら、まさに自殺行為である。

 私はこの4月から東京の大学に移り、東京で民主党を中心とする野党の政治家と会う機会も増えた。しかし、それはこれからの期待よりも、政治の現状に対する失望を強めている。民主党の中堅・若手で明確な政治信条を持っている政治家は、次のような不満を口にする。海江田万里代表、大畠章宏幹事長の執行部は、党の分裂回避を最大の目標として行動し、党内の意見が割れるような重要な政策課題に関する党の方針を決める際にも、妥協を重ね、融和を優先している。内部での調整にエネルギーを使い果たしているのだから、外に向かって攻める迫力など生まれてくるはずはない。それは外から民主党を観察している私も同感の話である。


 安倍晋三首相とその取り巻きたちが時代錯誤的な使命感を持って舞い上がることは、日本の政治を害している。ただ、彼らは以前から主張してきた信念を、子供じみた仕方で追求しているだけで、稚拙とはいえその論理は理解可能である。その政府・与党に対決の姿勢を取らない野党の方は、何を考えているのか、理解不能、説明不能である。


 47日付の朝日新聞に載った世論調査は、集団的自衛権の行使や武器輸出三原則の廃止に対して反対する人々が増え、多数派であることを示している。憲法や安全保障に関する安倍首相の冒険主義的な路線は、平和主義原則の変更に慎重な民意との間で、乖離を広げているのである。ただし、同じ世論調査で、内閣支持率は依然として50%台であり、国民は政策路線の食い違いにもかかわらず、安倍政権を支持していることも事実である。その理由としては、経済状況に対するある程度の満足が優先度の高い評価基準となり、憲法・安全保障に関する不同意が政権支持を撤回する動機になっていないことがあげられよう。もう1つ重要なのは、安倍政権への不安や反発があっても、次に支持すべき別の選択肢が存在しないため、安倍政権や自民党への支持が減退しないという事情である。


 政治学者は、政治の世界における人間の行動を合理主義によって説明したがる。個々の政治家は選挙での当選を追求し、政党は権力を追求して最善と思われる選択肢を取るはずだという前提で、政治の動きを説明するのが理論的分析である。しかし、今の野党を見ていると、学問は机上の空論であり、政治家や政党の動きは理解不能で、苛立ちが昂じるばかりである。


 安倍政権と自民党は右傾化を深め、「右舷に傾きすぎて沈没しかねない」と同党の村上誠一郎議員が最近の雑誌インタビューで心配するほどである。先に紹介した朝日新聞の世論調査も、村上氏の憂慮を多数派の国民が共有していることを示している。このような状況で政党はどのような立ち位置を取るのが合理的か。


 日本維新の会やみんなの党が自民党の右側に位置取り、集団的自衛権の正当化に協力しようとするのは、それらの党の理念に沿ってもいるし、自民党の連立相手である公明党に代わって、手っ取り早く権力の分け前にあずかろうとするという意味で合理的な行動である。民主党がこれらの政党と同じように自民党の右側の補完勢力になれば、日本では多党政治が事実上消滅する。民主党が政党としての存在意義を持続するためには、自民党の左側に立ち、安倍政権が進めようとする憲法改正に正面から反対する以外に道はないのである。また、それこそが憲法問題で安倍政権の暴走を憂慮する多くの国民にとって、有意義な選択肢の出現を意味する。


 この合理的選択を阻んでいるのは、民主党における矮小な合理性への執着である。民主党の指導部は、基本的政策について正面から論争をして党が分裂すれば、この党自体が雲散霧消するのではないかと恐れているのであろう。日本の民主主義のために働くことは断念し、ともかく政治の世界に存在することだけを目指すならば、重要政策についての論争に蓋をして、偽りの結束を保つことが合理的な選択肢となる。逆に、党の亀裂やある程度の分裂を恐れず、安倍自民党と正面から対決する姿勢を取れれば、民主党は政権に再び挑戦する野党として国民に認知されるはずである。


 思えば、20年前から政治改革を行って、政治の世界に健全で活発な競争を導入することを目指してきたはずである。現実には、小選挙区制は自動的に二大政党制をもたらすわけではなく、一強多弱の状況では与野党間における権力への競争ではなく、野党間で補完勢力の座をめぐる競争がさかんになった。また、政党内では、特に自民党で競争が消滅し、党指導部の独善に対して党内抗争でブレーキをかけるというメカニズムは期待できなくなった。逆に、民主党内では自民党に挑戦するために結束を強めるという契機よりも、権力を度外視し、もっぱら左右で党の主導権を争うという競争がはびこることとなった。


 政治の世界の最も基底的な原動力は、権力をめぐる争いのはずである。競争こそリーダーや政策を練磨し、国民に選択肢を確保する。しかし、現在の日本では、政治的競争が的外れな方向に向かい、政治の閉塞を強めている。この閉塞を打破するためには、それぞれの党で政治家が個人としてリスクを取って発言、行動することが必要である。

週刊東洋経済 4月26日号


2014.03.15 Saturday 17:33

帝国という誘惑

  3月初旬、柄谷行人、佐藤優両氏を札幌に招いて、政治の現状を議論する機会を設けた。両氏は、世界の現状は19世紀末の帝国主義の時代に似ていると指摘した。確かに、ロシアがクリミアの併合を画策し、ウクライナは分裂の危機をはらんでいる。内政不干渉や主権の尊重という国際社会のルールは、強国の実力の前に空文と化しつつある。「必要は法律を知らない」という中世の格言がロシアの行動に当てはまる。

 この格言は、国内政治でも猛威を振るい始めた。安倍晋三首相や自民党の政治家がどこまで意図しているのかわからないが、最近の憲法や重要法律をめぐる動き、要職の人事は、制約や拘束から自由な強い国家、帝国へのあこがれの反映のように見える。その根底には、必要は法律を知らないという開き直りがある。

 たとえば、NHK会長の人事はその表れである。安倍首相はNHK会長の非常識な発言に対する世論の批判を無視している。放送法には、品性下劣な人物を会長に任命してはならないという明文の規定はないから、違法なことではないと言いたいのだろう。公共放送のトップにふさわしい品格、見識を求めるという相場が世間にはあるが、そんなものは安倍政権の意思決定には関係ない。

 極めつけは、憲法9条の解釈をめぐる独走である。212日の衆議院予算委員会で民主党の大串博志議員が内閣法制局次長と公明党の太田昭宏国土交通相に対して集団的自衛権に関する質問を集中したことに、安倍首相はいらだち、自ら答弁を買って出て、憲法解釈の最高責任者は自分だと高言した。総理大臣の一存で憲法解釈がいかようにでも変えられるなら、そもそも憲法を持つ意味はない。明治憲法でさえ、当時の欧米先進国に追いつくためには権力を制約する憲法が不可欠だから伊藤博文たちが苦心の末作ったものである。あの答弁は、安倍という政治家が憲法の意味を全く理解していないことを示した。

 まさに、必要は法律を知らないという開き直りが、安倍首相の奇妙な全能感と結びついている。知らなくて何が悪いと開き直る政治家を批判することは難しい。民主政治における為政者の批判は、する方もされる方も、ルールの共有を前提としているからである。しかし、全能感に浸った権力者が憲法を破壊することは、国民に大きな害悪をもたらす。効き目があろうがなかろうが、きちんと批判しておかなければならない。

 必要は法律を知らないという為政者の自己正当化に対しては、為政者の掲げる目的が本当に必要かどうかという論点からと、為政者たる者、時として法を超えた決定を下すこともあるが、その場合でもより高次の規範に服さなければならないという論点からの批判がありうる。

 為政者の言う必要が本物の必要かどうか、まず考えなければならない。安倍首相が要職にお友達やその仲間を据えることは、単に公的機関を自分の好みで一色に染めたいという欲望の現れである。そんな欲望のために法や常識を乗り越えてはならない。では、集団的自衛権の公認はどうか。安保法制懇談会は集団的自衛権が必要な場合をいくつか類型化しているが、アメリカに向けて発射されたミサイルを撃ち落とすという想定に示されているように、それらは机上の空論であり、およそ現実味を欠いている。そこで示された状況には、個別的自衛権で対処できる。わざわざ集団的自衛権を持ち出す必要はないのである。この議論の真の目的は憲法9条の無意味化にある。そして、それは今の日本にとって不必要どころか、有害な行為である。

 次に、権力者といえどもより高次の規範に服さなければならないという観点から、安倍政治を見てみたい。高次の規範という発想は、自然法やキリスト教という普遍的なるルールを持つ西欧では長い伝統を持っている。日本ではなじみのない考えかもしれないが、実はそう難しい話ではない。民主主義体制ではもちろんだが、王制や専制国家においてさえ、統治の持続には被治者の合意や納得が必要だという政治の鉄則がある。かつての社会主義体制の崩壊劇のように、圧倒的な支配を誇った一党独裁体制でも、被治者が権力の正当性を認めなければ、革命がおこる。法の明文規定に反しなければ何をしてもよいという権力者の開き直りが常態化すれば、人々は次第に支配の正当性を疑うようになる。

 安倍政権は国会での安定多数に支えられ、強固な基盤を持っているように見える。しかし、過度に党派性を押し出し、人々が呆れるような人事を行ったり、無理筋の憲法解釈変更を強権的に推し進めたりすれば、それは権力の基盤を掘り崩すことにつながる。常識的な人々の正当性感覚は、世論調査の支持率の用に具体的に目に見える形で表現されるものではない。目に見えない者は存在しないという過信こそが為政者を自滅の道に追いやった事例は、歴史にいくらでもある。

 安倍首相は国家が権力をむき出しにして権益を追求する世界情勢を見て、帝国への誘惑に駆られているのかもしれない。アジア太平洋戦争の歴史について過剰に自己正当化を図ることも、帝国の栄光を誇示したいという欲求の現れであろう。しかし、無知を恥じない政治家が帝国を担えるはずはない。浅はかなナショナリズムを喚起することは、かえって国民の知的な力を損なうことになる。公的機関の指導的地位に同類の友人を据えることは、かえって政府の統治能力を弱めることになる。愛国を声高に口にする政治家の一党は、むしろ国を衰弱の危機に追いやっているのである。

 安倍政権のおごりは、早晩この政権の力を弱めるだろう。選挙の有無とは関係なしに、野党は国会の表舞台で、為政者のおごりや浅はかさを追及しなければならない。一部の野党が安倍政権と一緒になってナショナリズムを煽るのを見ると、暗たんたる思いである。

週刊東洋経済3月日号


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