2017.12.12 Tuesday 16:59

総選挙が示した野党の課題


 与党圧勝の総選挙結果だが、圧倒的な議席数の背後には安倍晋三政権の脆さや揺らぎも現れつつあることがわかる。この総選挙は前例のない奇妙なものであった。選挙戦中に朝日新聞が行った世論調査では、安倍首相の続投を支持する人が34%、支持しない人が51%、自民一強体制をよいことだと思う人が15%、よくないことだと思う人が73%だった。安倍政権の政治手法や政策に不安や不満を持つ人が多数派であるにもかかわらず、選挙では圧勝した。
 なぜ不人気な政権が勝てたのか。解散時の最大野党だった希望の党が、政権選択と叫びつつ、安倍氏に代わる首相候補を具体的に打ち出すことができず、「排除」を持ち出して野党勢力を分断した時点で、勝負はついていた。政権を選べと言われつつ、野党側が次の政権のイメージを示すことをしないのだから、有権者は野党に投票するわけにはいかなかった。総選挙をおごれる安倍政権に対する「お灸」と意味づけるならば、人々は安倍政権の存続を前提としつつ、もっと自由に野党に投票しただろう。
 55年体制の下では、自民党政権の存続は自明の前提であり、有権者は自民党の行状を見てしばしばお灸をすえ、与野党伯仲状況が出現した。その後、1990年代の選挙制度改革と政党再編の後は、総選挙は政権選択の機会とされた。そのことの是非について、この選挙を通して考え直す必要があると思う。
 政権交代のない55年体制を打破するために小選挙区制が導入され、自民党に対抗する大きな野党の塊を作る模索が続いてきた。しかし、新進党の解体、民主党の分裂、さらに今回の民進党の分裂と、その試みはことごとく失敗に終わった。3回同じ失敗を繰り返したということは、小選挙区というタガをはめて大きな野党を作るという発想そのものが間違っていたことを意味する。私自身はこの25年ほど、政治改革と政党再編の旗を振った張本人だったので、意地を張って、失敗してもともかく野党結集を叫んできた。しかし、間違いは認めなければならない。
 民主党が2009年に政権交代を成就できたのは、政権交代がこの党の唯一の結集原理であったからで、それを実現すれば同党の歴史的意義はなくなったわけである。自民党は長い与党経験の中で、党内の多様性を持ちながら権力保持のためにまとまる術を体得している。野党を作るときには理念や基本政策を軸に党の統合を図らなければならない。しかし、小選挙区で生き延びるという利害以外に共有すべき理念がないのだから、自民党に挑戦する際にも迫力が生まれない。
 今回、立憲民主党が70数名の候補者しか擁立できなかったにもかかわらず、比例代表で1000万を超える票を得たのは、前原誠司氏が民進党の右派や機会主義者を希望の党に送り込み、それに同調しない政治家がリベラリズムを基調とする旗幟鮮明な新党を立ち上げ、これを歓迎する市民が投票したからである。リベラル派だけで、前2回の総選挙における民主党の比例票を上回る得票ができた。共産党の比例票が前回よりも160万も減ったのは、民主党・民進党の雑居性を嫌っていたリベラルな市民が立憲民主党を支持したためだろう。
 選挙制度の再検討は必要である。少なくとも、細川護熙氏が言うように、小選挙区と比例代表を1対1の比率にすること、比例代表を全国一本にすることが望ましい。とはいえ、それが実現する可能性は低い。今の制度の中で自民党に対抗する、政策的基軸を持った野党を作り出すという課題に取り組まざるを得ない。一件、二律背反に見える政策的な一貫性と政党の規模拡大をどう両立させるのか。
 立憲民主党が野党連合の主軸に成長するためには、革新、リベラルの市民だけではなく、安倍政治に不安・不満を持つ穏健保守層の支持を集めることが必要となる、その意味で、枝野幸男代表が自らを保守と規定することは的確な路線である。今の日本政治においては、何を保守するかで大きな路線対立を描くことができる。安倍首相は、大日本帝国を回復し、これを保守したいと思っているのであろう。これに対して、野党は戦後民主主義を保守するという旗印を明確にすべきである。ここで言う戦後民主主義とは、特に1960年代以降自民党と野党の相互作用の結果定着した路線である。日米安保を基調としつつ、憲法の枠内での適度な自衛力を持ち、アジア諸国との友好関係を保持する。市場経済を基調としつつ、ある程度の公平な分配を維持する。かつて自民党の穏健派が追求したこのような路線を掲げる勢力が、自民党に対抗することで、政治の選択肢が生まれる。昔、自民党内で起こった右派と穏健派の間の権力交代を政党間で起こすというのが、今後ありうる政権交代のイメージである。
 もちろん、単純に昔に戻れという話ではない。人口減少時代でいかに経済の持続的成長を実現するか、中国が大国となった時代にいかに東アジアの秩序を作るか。難問山積ではあるが、自民党政権が答えを持っているわけではない。
 次の国政選挙は2年後の参院選だろう。それまで、野党の合従連衡には背を向け、政策構想を練ることが立憲民主党の課題である。選挙協力は選挙が目前にならなければ具体的に進捗しない。むしろ、同党は他の野党や労働組合の連合とも緊張感を持って、政策論議を深めるべきである。例えば、原発のない社会をつくるという大きなビジョンを描き、その中で新たな雇用や地域経済の創造という政策を打ち出して連合を説得するというような力技を発揮できれば、政党政治の可能性に対する人々の期待を喚起することもできるだろう。野党は志を持って、思索と論議を重ねる時である。

週刊東洋経済 11月11日号

2016.07.30 Saturday 14:29

参院選の帰結と今後の政党政治


 私自身、今回の参院選では市民連合(立憲主義の回復と安保法制の廃止を求める市民連合)の言いだしっぺとして野党結集を呼び掛け、1人区を中心に全国を走り回って野党候補を応援した。今の与党に参議院でも3分の2以上の議席を与えることは日本の立憲民主主義を破壊するという危機感ゆえの行動だった。この観点からは、今回の参院選は野党の敗北である。私たちの危機感を国民の多数が共有しなかったことは、野党と私たち市民団体の力不足というほかない。
自民党の比例票は2千万票を超え、首都圏の選挙区では複数当選を実現した。公明党も完勝であった。選挙後、無所属議員の入党を加えて、自民党は参議院でも単独過半数を回復した。思い起こせば1989年の参院選における自民党大敗から日本政治の動乱が始まったのだが、安倍晋三総裁はこれに終止符を打ったということになる。
 もちろん、衆参いずれの自民党議員も、選挙の際には公明党の協力に頼っているので、単独過半数の回復が連立の解消につながることはないだろう。それにしても、憲法や安全保障問題で自民党が公明党とは異なる政策を追求するうえで、公明党の抵抗力が一層低下することもありうる。選挙戦では憲法問題を封印した安倍首相だが、選挙が終わったとたんに自民党の憲法草案をベースに憲法改正論議を進めたいという意向を明らかにした。今後自民党が打ち出す改憲論議については、国民との間におけるインフォームド・コンセントの欠如という批判を続けていくしかない。
 野党は敗北したとはいえ、ギリギリのところで踏ん張ったという評価もできる。特に32の1人区のうち11で勝利したことで、野党協力はある程度の成果を上げたということができる。民進党が大敗していれば、昨年夏の安保法制反対以来のリベラル路線、およびそれに基づく野党協力が失敗したことになり、民進党はその反動で右傾化したに違いない。そうなると、巨大与党自民党の周りをいくつかの政党がさまよう一党優位体制が出現しただろう。そうした最悪の事態だけは防げたということができる。
 この結果を受けて、安倍政権との対決姿勢と国政選挙における野党協力路線は続くことになる。野党結集と立憲主義の擁護を叫んだ私にとっても望ましい展開ではある。しかし、ここから野党を再生させ、政権交代を展望するまでにはいくつもの難関がある。
 3分の1を攻防戦にした野党結集は、昔の55年体制をほうふつとさせる。3分の1と2分の1の距離はきわめて大きい。社会党は3分の1で満足し、2分の1を目指す努力を放棄した。その結果自民党による長期政権を許すこととなった。今の野党の協力路線が持続されれば、3分の1を確保するくらいの効果はあるだろう。しかし、2分の1を目指す体制を作れるだろうか。
 選挙後の世論調査で、『朝日新聞』は、与党大勝の理由として、国民の7割以上が「野党に魅力がない」ことを挙げ、その割合は民進党、共産党に投票した有権者でも同じであった。しかし、魅力ある野党とは形容矛盾である。魅力がある政党は選挙で勝って、すぐに与党になるはずである。野党が安倍政権の政策に反対を唱えるだけでは頼りない、野党も経済政策について対抗するビジョンを打ち出せという声があることは重々承知している。私自身、野党候補を応援するときに暴走を止めるなどという後ろ向きの言葉を使うのは夢がないと感じてきた。だが、所詮野党の政策は絵に描いた餅である。権力を持たない野党が、政権交代にもつながらない参院選で政策を訴えても現実味はない。
 加えて、野党が抵抗路線を取らざるを得ない理由は、安倍政権の側にある。昨年の安保法制成立後、谷垣禎一幹事長が安倍首相に、安保の後は池田勇人のように経済中心の政権運営をするよう進言したことがあった。安倍自民党が集団的自衛権行使容認で満足し、憲法改正を棚上げにすれば、民主党・民進党がここまで抵抗路線を取る必要はなかった。安倍首相が憲法改正に固執し、政府与党の要人からも自由や人権を脅かす発言が続いたことで、野党と市民運動には憲法と民主主義の危機という感覚が広がり、それが野党協力の土台となった。選挙後、社民党と生活の党が統一会派を作ることになるが、共産党以外の野党が統一して大きな対抗力を作り出すことは必要だと私も思う。
 ただし、抵抗のための野党協力が続けば、そのうちに民進党の中も割れてくるだろう。大阪維新などと連携して、自民党政権に是々非々の姿勢で向き合うという路線を取る政治家が次の再編を起こすかもしれない。
 野党結集が憲法破壊への抵抗というベクトルから、政権交代と政策刷新という前向きのベクトルに変わることは、いかにして可能か。それこそ、今私が最も悩んでいる問題である。内政に関しては、アベノミクスに対抗して、格差・貧困問題の解消に取り組み、雇用と生活の安定から内需主導の程よい経済成長を追求するという政策の処方箋は既に存在する。民主党政権時代から、神野直彦氏などが提言してきた路線は今でも有効である。しかし、消費税によって財源調達を行うという話が出たとたんに、民進党以外の野党からは猛烈な反発が生じる。衆院選での政権構想となると、前途遼遠である。
 今、東京都知事選挙が行われている。ここで野党結集が成功すれば、民進党のリベラル路線と野党協力は当分続くだろう。美濃部都政の時のように、東京都から政策のイノベーションを起こすということもできるかもしれない。人々を鼓舞するシンボルと、社会を造り変えるための論理の両面を追求するという難しい課題に、野党と市民運動は取り組んでいかなければならない。

週刊東洋経済7月30日号

2016.03.28 Monday 23:20

庶民感情と民主政治

 民主政治は、基本的人権や法の下の平等などの建前と、啓蒙された自己利益、つまりある程度長い時間軸で自分の利益を考える計算能力というかなり高度な前提に依拠している。人間はいつも賢く行動するわけではなく、世の中にはそんな建前とは反対の現実の方が多いので、そこから民主主義なんて虚妄だという批判が簡単に広がる。
 したがって、民主政治において庶民感情をどう活用するかは、難問である。庶民感情が弱い者いじめや、異質な少数派への排斥に向かえば、庶民を動員する独裁者の下で多数の専制が生まれる。他方、特権を持ったエリートに対する批判に向けば、公平、平等な社会を作り出すための改革のエネルギーにもなる。その点で、庶民政治(ポピュリズム)は両義的である。20世紀初頭のアメリカでは、ロバート・ラフォレット(ウィスコンシン州知事)やセオドア・ローズベルト大統領のリーダーシップの下で、庶民感情が巧みに政治的エネルギーに転換され、政党におけるボス支配の打破、資本の横暴に対する独占禁止政策などが実現した。
 目下世界の注目を集めているアメリカ大統領候補を選ぶ予備選挙も、ラフォレットの時代に政党の寡頭制を倒し、出したい候補を一般党員が押し上げるための仕組みとして始まった。今、この仕組みを通して、大富豪のドナルド・トランプと、「民主社会主義者」バーニー・サンダースがそれぞれ庶民感情を利用して戦っている。
 トランプは自ら億万長者であるがゆえに、選挙資金を自前で調達し、大企業に頼らない姿勢を売り物にしている。そして、人種や性の平等など民主主義に付きまとういくつかの建前をひっくり返す過激な言説で、庶民、特に白人男性の喝采を浴びている。没落しつつある多数派の不満を吸収するのがトランプ流の庶民政治である。サンダースは、大企業優先の経済政策を批判し、福祉国家路線を前面に掲げて大学生など知的な庶民の支持を集めている。一部ではトランプ支持層とサンダース支持層が重なっているという新聞記事を読んで、アメリカ社会に鬱積する政治的不満の現状を思い知らされた。
 民主政治においては、庶民感情は否定できない。それが憎悪や差別という破壊的なエネルギーではなく、格差縮小や人間の尊厳を守るための改革という建設的なエネルギーとなるためには、リーダーシップが必要である。共和党の中にそのようなリーダーがいないことが明らかになった今、ヒラリー・クリントンに期待するしかないという現状だろう。医療や教育など、民主党が得意とする政策をさらに強化することで、庶民の不安に答えるしかない。
 日本では、「保育園落ちた、日本死ね」という匿名のブログが権力者を慌てさせている。SNSによって庶民感情が直接政治を揺るがす力を持つようになったことは、極めて新しい現象である。その種の感情の発露が政治家の惰眠を覚まし、深刻な政策課題への取り組みを促すことは、民主政治の健全な機能である。これから選挙に向かって、庶民感情をいかに取り込むか、各党も必死になるだろう。 安倍政権は、政策の巧みさで評価されているわけではない。憲法や原発に関する政策では国民の多数は政権の政策に反対している。アベノミクスの効果が及んでいないことも感じている。理屈で支持されていないところが、安倍首相の強みでもある。隣国への漠然とした恐怖感、経済的閉塞や国力衰退への不安など、否定的な感情を掬い上げ、国民の守護者として自らを演出することに、ある程度成功していると言わざるを得ない。
 野党は、民主党政権の失敗という国民の否定的記憶を払拭することができないまま、安倍政権の政策に反対する理屈をいろいろと並べているという状態である。3月末、民主党と維新の党が合併して、民進党が結成されることとなった。この名前を考えた維新の党の江田憲治議員は、「国民とともに進む党」という意味だと説明している。論理的体系を持つ政策も大事だが、社会の不条理に対する怒りや憤りを国民と共有することも、野党政治家の重要な資質である。「日本死ね」と言わなければならない状態まで追い詰められた人々、特に低賃金で働く若い女性、高い学費を払いながら仕事を探す学生など、今まで自民党政治の顧客ではなかった人々の思いを掬い取ることができるかどうか、民進党の真価がさっそく問われることになる。新党の名前は魅力的ではないが、政治家の行動で人々の感情に訴えることが必要となる。
 繰り返すが、理屈だけでは政治はできない。感情を正義感に引き寄せるのか、差別やいじめなどの劣情の方に引き寄せるのかは、民主政治を持続するか、衆愚政治に堕落させるかという問いに密接にかかわる。安倍政治はナショナリズムを喚起し、庶民感情を利用して統治を続けている。これに対して、アベノミクスがもっぱら大企業の利益だけを増やしている現実、原発事故の真相がいまだに究明されないまま原発再稼働が進んでいる現実など、不条理を追及するうえでも、庶民感情を正義感の方向に動員することが必要となる。 デマゴギーで感情を刺激するのではなく、事実やデータを駆使して、根拠のある怒りを高めることが、野党の取るべき手法である。大学生に給付型の奨学金を与えるための財源はいくら必要か、待機児童をなくすための保育所整備や保育士の待遇改善にどれだけの予算が必要か。これに対してアベノミクスによって大企業にどれだけの内部留保が積みあがっているのか。法人税減税の恩恵はいくらなのか。こうした事実を論じる中で、富をこちらに回せというスローガンが感情的な響きを持つことも当然だと思う。グローバル化の中で他にやりようはない(There is no alternative.)と人々は経済新聞やエコノミストに教え込まれてきた。その呪縛を断つことから、政策論議は広がっていく。
週刊東洋経済4月2日号

2016.02.27 Saturday 23:49

野党は決断を

 政治学者、京極純一先生の訃報に接し、私が講義を聞いた頃の先生の年を追い越していることに愕然とする。学者も小粒になっているので政治家の劣化などと気安く批判はできないと分かっているつもりである。それにしても、最近の政府与党の政治家の退廃は目に余る。そして、戦後の日本にこんないやな時代はなかったのではないかと思う。
 いやだと感じる理由は、権力者が世の中を自分の気に入るように塗りたくろうとしている点にある。放送業界を監督する任にある高市早苗総務大臣は、テレビ番組が不公平な報道をしたら電波の停止を命じることもあると発言し、安倍晋三首相もそれを追認した。安倍首相はテレビニュースの街頭インタビューでも政権批判の声が多いと文句をつけたくらい自分に対する批判を忌避している。それにしても監督権限を持つ大臣が法律に基づいて電波停止の可能性に言及することはかつてない威嚇である。
 そもそも不公平とは何かを誰がいかにして判定するのか。与党の議員である総務大臣が判定するなら、自党を批判する報道を不公平と断定することもありうる。悪政によって苦しむ人が存在すれば、それを紹介することこそ公平な報道である。権力者が百点満点の政治をしていない限り、公平は無色透明ではなく為政者に対する攻撃を含むのが宿命である。高市氏は報道の自由を無視しているというしかない。
 人間だれしも批判されるとうれしくはない。しかし、こと権力者の場合、そうした自己愛は捨ててもらわなければならない。権力はしばしば腐敗、暴走するものであり、国民の生命や自由を脅かす。だから批判を受けることは権力者の宿命である。京極先生は自民党政権のご意見番の役割を演じたこともあったが、もちろん知識人として権力者と付き合った。昔の権力者は京極先生の寸鉄人を刺す辛辣な批評を喜んで聞いていた。新聞テレビのトップを食事に呼び集めて報道現場を委縮させる今の権力者とは正反対であった。批判、諫言を一切聞こうとしないばかりか、諫言を抑圧する今の政治家を見ると、京極政治学で描かれた大人の世界は消え去ったと嘆くばかりである。
 とはいえ、権力によるメディアの統制には限界がある。環境大臣が放射線被ばくの規制の根拠を理解せず、北方領土担当大臣が歯舞諸島を読めないというのは、国民を愚弄した話である。閣僚、議員の相次ぐ失言や非行に加え、株価の急落や景気減速で、安倍政権の行く手にはにわかに暗雲が垂れ込めてきた。
 問題は、野党が安倍政権に対抗する存在感のある選択肢を提示できていない点である。半年足らず先の参院選において32の1人区で野党が協力しなければ自民党の大勝を許すということは、安保法制が成立した直後から多くの市民が訴えてきた。加えて、年初から安倍首相が憲法改正の意欲を明確にし、自民党による3分の2の獲得を防ぐための具体的な戦略は焦眉の急となっている。1月中旬の朝日新聞の世論調査では、改憲を目指す勢力が参院で3分の2以上を占めた方がよいかどうかという質問に対して、占めたほうがよい33%、占めないほうがよい46%と、安倍流改憲の反対する声が多数派である。
 民主党の岡田克也代表も改憲阻止の姿勢を示すところまではよいが、具体的にそれを実現するための戦術は全く持っていないかのようである。多くの1人区では野党結集を求める市民運動が様々な努力を重ねている。しかし、民主党が他の野党との協力を公式に表明していないことから、共産党も候補者の取り下げに応じていないという手詰まり状態が続いている。このような無策のままで選挙に突入すれば、民主党は2013年参院選と同様、せいぜい十数議席しか取れないだろう。そうなると、二大政党の幻想も吹き飛び、一党支配が復活する。連合は12産別の候補を比例に立てるが、5,6の議席をめぐる悲惨な椅子取りゲームになることは必至である。民主党、連合の危機感のなさはなぜなのか。連合の主力の民間大労組はアベノミクスによるトリクルダウンの恩恵に浴して、政権交代の野望を失っているのか。
 希望はある。熊本ではすべての野党と連合、全労連が協力し、野党統一候補の擁立にこぎつけた。衆議院北海道5区の補欠選挙でも、地元の市民グループの仲介によって、民主党と共産党の候補者一本化が実現しようとしている。衆院補選は、宮崎謙介衆院議員の辞職による京都3区でも行われることとなった。自民党への逆風は必至であり、補選で野党が勝てば、参院選の雰囲気も一変するだろう。仮に衆議院の早期解散があっても、1人区での協力の経験は生きてくるに違いない。
 アメリカ大統領選挙の候補者を選ぶ予備選挙を見ていると、候補者選定の段階での市民参加が、政治の流れを大きく左右することがよく分かる。日本の民主党の場合、「市民が主役」という結党時のスローガンとは正反対に、選挙は徹底して政治家が取り仕切った。政権交代も政治家の世界でのメンバーチェンジでしかなかった。日本の政治には、市民によるコミットメント(強い関与)という契機が不在であった。だからこそ、政党が落ち目になった時に、逆境を支えようという本当の支持者がいないのである。(その点、自民党の方が日本会議など、熱心な支持基盤を持っている。) 民主党と維新の党の合体など、所詮政治業界内での駆け引きで、政治全体には何のインパクトももたらさない。民主党にとっての起死回生の策は、候補者の擁立と政策基軸の樹立に向けて、広範な市民の参加を誘い入れることで、エネルギーを受け入れることである。憲法問題だけではない。格差貧困問題、年金基金による株価下支えの失敗など、安倍政権の失策を正面から批判し、論戦の構図を作れば、参院選は日本国民にとって久々の意思表示の機会となる。民主党指導部の決断が求められる。
週刊東洋経済2月20日号

2016.01.25 Monday 15:18

2016年の政治課題

 今年最大の政治イベントは、夏の参議院選挙である。政府与党では、衆参同日選挙の可能性も取りざたされている。来年春の消費税率引き上げが予定通り実施されれば、その後しばらくの間は解散・総選挙を断行できる状況ではなくなる。野党は同日選の可能性も考えて態勢を作る必要がある。


 安倍晋三首相は年頭の記者会見などで憲法改正の意欲を明らかにし、NHKの日曜討論では与党と改憲に賛成する他党を合わせて参院でも3分の2以上の議席を獲得することを目指すとも述べた。参院選は戦後政治体制の原理を転換するのか、持続するのかをめぐる大きな選択の機会となる。


 安倍自民党が進める憲法改正が立憲主義や自由民主主義の基本原理を破壊する恐れがあると危惧する理由は、昨年の安保法制の中身や立法過程のひどさだけではない。安倍政権および安倍首相と親しい民間団体が最近メディアに対する威嚇や圧迫を強めていることも、今の権力者が自由や多元性の重要性を理解していないことを暗示している。


 最近、テレビ朝日の「報道ステーション」の古館伊知郎氏が年度末での降板を表明し、NHKの「クローズアップ現代」の国谷裕子氏、TBSの「NEWS23」の岸井成格氏も、同じタイミングで番組から降板すると伝えられている。これらの番組は、政府の政策に対しても当然の疑問を投げかけ、権力の行き過ぎがあれば注意を喚起するという点で、まともなジャーナリズムの役割を果たしてきた。これに対して自民党は番組の不正確な部分や制作過程における瑕疵を取り上げ、局の幹部を呼びつけた上で、放送免許の停止にまで言及して威圧を加えた。岸井氏については、安倍氏に近い評論家などが作った民間団体が全国紙の意見広告の中で、放送法違反の不公正な報道をしたと名指しで非難した。この団体と政権の間に直接的なつながりがあるのかどうか不明だが、少なくとも安倍政権の応援団は政府に批判的な発言をするキャスターやアンカーを黙らせたいと思っていることは明らかになった。


 3人の降板があるとすれば偶然の一致かもしれない。しかし、日本のメディアが委縮し、権力に対する批判を避けようとしていることは事実である。多様な言論の中で批判を受けることは為政者の宿命であるという民主政治の常識は、日本ではもはや過去のものとなった。


 北朝鮮の核実験のニュースも取り上げ方次第では、日本の民主主義や自由な言論に対する破壊兵器となりうる。当初から核兵器の専門家にはあれが水爆の爆発だったかどうか疑問視する声も多かったので、メディアが正確を期するなら、あの実験を核実験と呼び、北朝鮮は水爆実験と主張していると報じなければならないところである。


 しかし、16日のNHK「ニュースウォッチ9」では、北朝鮮の主張をうのみにして水爆実験と繰り返し、水爆は広島型原爆の数百倍以上の威力を持つと言い、過去に米国などが行った水爆実験の映像を流した。また、ゲストの朝鮮半島情勢の専門家は、水爆は小型なので弾道ミサイルに搭載すれば米国東部も攻撃可能となり、朝鮮半島有事の際、米国は核攻撃を恐れて韓国や日本を守る意欲を失うかもしれないと述べた。すべて北朝鮮の誇大宣伝を額面通り受け止め、日米安保が無効化するという恐怖を呼び起こす言説である。


 北朝鮮の核実験の日は、たまたま通常国会冒頭の代表質問が行われた日でもあった。これに関するNHKの報道もひどいものであった。民主党の岡田克也代表は安倍政権が進める低額年金受給者への3万円の現金支給を選挙目当てのバラマキだと非難し、与野党の対決は激しいものであった。しかし、同じニュースウォッチ9は岡田氏が北朝鮮の核実験を批判する部分だけを紹介し、この質問に対して安倍首相が断固たる姿勢で対応すると答えた部分を組み合わせて伝えた。この種の報道の仕方は、北の核脅威を利用し、日本国内における正常な政治論争の枠組みを壊しているということができる。一連の報道からは、危機を口実に国民の恐怖心をあおり、現政権が進める安全保障立法への支持を引き出すという意図が見え隠れする。


 朝鮮半島核危機について、軍事力の行使という選択肢はあり得ない。イラク戦争のような体制転覆を図れば、北朝鮮が死なばもろともと自暴自棄に陥り、核戦争が本当に起きるかもしれないからである。米国の軍事力の存在も北朝鮮による核開発を防ぐことはできなかった。安倍政権が進める集団的自衛権行使はこの問題の解決とは無関係である。


 岡田氏が、安倍政権が進める憲法改正を阻止することが焦眉の急だと述べたことには賛成である。参院選、あるいは同日選の中で安倍首相が憲法改正を前面に掲げるかどうかは不明だが、自民党が圧勝すれば、安倍首相は安倍流改憲への国民の支持が得られたと強弁するだろう。そうなると、2016年は戦後日本の民主主義、平和主義の崩壊過程の中で、ポイント・オブ・ノー・リターンの年となる。実際昨今のメディア攻撃は、日本政治における復元力を破壊する試みである。野党はこの危機の切実さをかみしめるところから、今年の政治戦略を考えなければならない。


 昨年の安保法制反対運動の盛り上がり以降、多くの市民が憲法擁護のために野党が結集、協力することを求めている。参院選だけについては、安倍政権の暴走を止めるという位置づけで、憲法擁護の勢力を集めることを軸にして、与野党対決の構図を作ればよい。同時に、同日選挙が仕掛けられた時にどうするかも考えておく必要がある。民主党には解党や党名変更を求める声もあるが、そんな小手先の議論に引きずられてはならない。民主党が政権を取ってどんな日本を作りたいのか、政権時代の成功と失敗を踏まえてビジョンを描かなければならない。アベノミクスが馬脚を現しつつある今、人間らしい生活の確保と格差縮小を軸にもう一つの日本経済、日本社会の姿を描くことは、決して難しい話ではないはずだ。


週刊東洋経済 1月23日号


2015.12.19 Saturday 18:58

戦後デモクラシーはどこへ行くか

 戦後70年の年の最後の時評なので、今年を振り返ってみたい。今年は安保法制の成立という平和国家路線からの大きな転換が起こった。政治学の世界でも、松下圭一、篠原一など、1920年代生まれで青年時代に戦争を経験し、それを土台に政治学研究を深めていった学者が相次いで亡くなった。戦後政治学の終わりを痛感させられる。これらの学者は、敗戦後占領軍によって与えられた制度としての民主主義を、理念や精神として、あるいは実践や行動として日本に定着させることを目指して、長年思索と発言を続けた。


特に、松下、篠原両氏に共通するのは、政治を論じる時の時間軸の長さと、突き抜けた楽観主義である。松下は今から50年前から、情報公開と参加に基づく分権と自治を主張し続けた。沖縄県の反対にもかかわらず辺野古の新基地建設を強行する中央政府の姿勢を見れば、地方分権など夢のまた夢と感じるかもしれない。しかし、県があそこまで戦い、裁判を通して国の非違を糾せるということは、20年前までは考えられない事態であり、やはり分権は進んでいるということもできる。


 安倍晋三政権が安保法制を実現し、メディアに対する威嚇を躊躇しなくなり、それにもかかわらず支持率を回復しつつある今、安倍的なものに対抗する選択肢を作るために、我々、の政治的楽観の能力が問われている。今、安倍政権は盤石に見える。しかし、長い目で見れば自民党の統治能力の低下、支持基盤の浸食は明らかな現実である。国政選挙における得票を見ても、比例代表では自民党は国民の3分の1の支持を得ているにすぎない。


 そんなことを考えながら、『世界』の201011月号に掲載された篠原一のインタビュー、「トランジション第二幕へ」を引っ張り出して読み返した。このインタビューは、政権交代の後、参院選で敗北し、民主党の風向きがおかしくなったときの、篠原による現状分析であった。その中で、篠原は次のように語っている。


「こういう変動の時期は、ものごとをイベントや点として見るのではなく、長いプロセスとして、線として見る発想を常に持っていなければいけないと思うのです。(中略)

 日本人はせっかちだから、すぐ「改革をほとんどやっていないじゃないか」という。そのためにもトランジション(政権移行)という概念を導入したほうがよいのではないかと思うわけです。トランジションは革命ではないから、長い時間がかかる。(中略)

 日本の場合、(55年体制が)成功したからこそ、その体制が長く続いたわけなので、これを転換することは容易ではない。逆行したり、元に戻ったりすることもある。トランジションとはそういうものなのです。」


 今の安倍政治全盛だけを見ていると、2009年の政権交代など遥か昔の話に思える。しかし、自民党による一党支配を転換する日本政治民主化のプロジェクトは、始まってまだ6年しかたっていないと思えば、まだこれから頑張ろうという気が起こってくる。

 

 実際、自民党の劣化は明らかであり、政権の永続化を図るなら自重すべき場面で、権力者はこれほど強いのだぞという示威をしたがるあまり、滅茶苦茶なことをしている。沖縄における辺野古の新基地建設を遮二無二進め、沖縄の民意を踏みにじることもその一例である。歴史認識に関して、およそ世界では受け入れられない修正主義を前面に出していることも、その表れである。南京虐殺に関する資料が中国の申請により世界記憶遺産に登録されたことに対して抗議するために、南京虐殺自体がなかったとする右派学者を外務省が国際会議に送り出したことなど、エリートの間に反知性主義が蔓延していることを物語る。これは、天文学会に天動説を主張するカトリックの僧を派遣するようなものである。一時的には無理を通せば道理は引っ込むが、道理を無視した権力の横暴は長続きしない。これは歴史の真実である。


 篠原の言う逆行が想定以上に強力であることは認めなければならない。日本の保守政治における右バネは頑強であり、2000年代の民主党の台頭に対抗する形で右派的ナショナリストが草の根レベルでの組織化を進めてきたことがいま結実している。しかしそのような極端なイデオロギーが一般国民に浸透しているとまでは言えないであろう。安倍政権に対する支持はある程度回復しているものの、個別の政策課題に関する意見を問われれば、原発再稼働、安保法制、アベノミクスの効果などに関して、多数の国民は安倍政権の推し進める路線に反対していることを、各種世論調査は示している。とりわけ安保法制に対して、政治に関心を持つ市民層から強い反対の運動が現れたことは、安倍流の戦後レジーム打破に強い抵抗が働くことを物語っている。


 逆行を乗り越えてトランジションを再び前に進めるためには、来年の参議院選挙が極めて大きな意義を持つ。安保法反対運動の高揚を受けて、共産党の志位和夫委員長が野党結集を呼び掛けて2か月以上経過するのに、民主党が態度を明確にしないまま時間を空費している。野党の提携ができないまま参院選に突入すれば、民主党の惨敗は必至である。民主党が、選挙区でも比例代表でもそれぞれ一桁の議席しか取れないという結果になれば、民主党は二大政党の一翼という地位を失い、自民党による一党優位体制の復活が決定的となる。そうなると、逆行が一時的現象ではなく、トランジション自体が烏有に帰することになる。


 参院選の帰趨は一人区の勝敗が決めると言っても過言ではない。一人区で互角の戦いをしなければ、自民圧勝を食い止めることはできない。民主党が野党結集のイニシアティブを取り、安倍政治に不安を持つ国民の受け皿を提供できるかどうかは、民主党の命運を左右するだけでなく、日本の多元的民主政治の可能性を決めるのである。岡田克也代表のリーダーシップが問われている。


週刊東洋経済12月12日


2015.08.28 Friday 14:41

戦後70年のデモクラシー

 安倍晋三首相は、政権復帰以来の株価と支持率の上昇に支えられ、無人の野を行くがごとく、政策目標を実現してきた。しかし、安保法制に対する反対論が高まるなかで戦後70年の終戦の日を迎え、様々な制約の中で政権を運営させられていることを実感しているに違いない。


 1つの制約は、国際世論である。当初、安倍首相は自らの歴史観を盛り込んだ戦後70年談話を出すことに強い意欲を示していた。しかし、侵略や植民地支配を否定する右派的な歴史観は、アジアのみならず欧米からも受け入れられないことは明らかであった。日本が国際社会の中で生きて行くためには、首相が唯我独尊の歴史観を公表してはならない。安倍談話は首相個人の思いからはかけ離れたものとなり、長々しい文章のゆえにメッセージ性は薄くなった。


 首相は日本の次の世代に戦争について謝罪し続ける宿命を負わせたくないと、首相らしい表現を使った。侵略や女性の権利などに言及したことへの悔しさをここで晴らそうとしたのだろう。首相やその取り巻きの右派政治家が侵略を否定し、植民地支配を正当化する限り、次の世代の日本人はアジアの国民に謝罪を続けざるを得ない。この構図を首相は理解しているのだろうか。


 もう1つの、そしてより大きな制約は民意である。日本が民主主義国である以上、為政者が民意に制約されるのは当たり前である。今まで高い支持率の上におごってやりたい放題をしてきたことの方が異常であった。安倍政権が推進する安保法制はきわめて不出来な代物であり、国会審議における政府答弁は破綻している。首相は、衆議院の審議では集団的自衛権の行使の事例としてホルムズ海峡の機雷除去をあげていたが、それが荒唐無稽であることが明らかになると、参議院の審議では中国の脅威を強調し始めた。安保法制は日本の安全を確保するための手段ではなく、それ自体が目標である。日本社会や国民生活にかかわる実体的課題を後回しにして安保法制に狂奔する安倍政権には、国民の存在は目に入っていないようである。


 私は昨年71日の、集団的自衛権行使を正当化する閣議決定を前に、政治学や憲法学の研究者とともに立憲主義を擁護するための運動、立憲デモクラシーの会を結成した。戦後日本に定着した憲法9条の運用を安倍政権が閣議決定で変更することは、憲法による政治権力の制約という立憲主義を破棄するものだという危機感を持って運動をしてきた。今年の6月以降の世論の変化は、正直なところ想像を超えたものである。


 衆議院憲法審査会で3人の憲法学者が安保法制について憲法違反だと断言したことから、安保法制について異論を唱えたり反対したりすることは正しいのだという解放感が、メディアや関心を持つ市民の意間に広がった。66日に立憲デモクラシーの会が東京大学法学部の教室で、憲法学の泰斗、佐藤幸治京都大学名誉教授、樋口陽一東京大学名誉教授と石川健司東京大学教授による講演とシンポジウムを開催したところ、会場には教室の定員の倍を超える千五百人以上の市民が詰めかけた。会場の雰囲気は異様と言ってよいものであった。安保法制という道具が日本政治の土台を突き崩すのではないかという憂いが充満していたと私は思った。佐藤氏は直接安保法制には言及しなかったが、人類、そして日本人が苦闘の末に確立した立憲政治を今覆すことは許されないと、熱を込めて説いた。なお、この時の佐藤講演は『世界史の中の日本国憲法』(左右社)として刊行されている。


 立憲主義という言葉は、戦前の日本では藩閥や官僚による支配に対抗して、政党勢力が使ったシンボルであり、人口に膾炙した。しかし、権力の暴走を防ぐという消極的なメージで、民主主義よりも後退している感覚があり、戦後民主主義の中では、しばらく忘れられていた。今回の安保法制をめぐる議論を契機に、立憲主義という言葉が流布している。この20年ほど、我々は十全な民主主義を目指して試行錯誤を続けたが、自民党以外に政権の担い手がいないという身もふたもない現実を再発見しただけであった。しかも、その自民党はかつての幅広さや慎重さを失い、議員経験も浅い、ネトウヨと見まがう政治家が跳梁跋扈している。そして、憲法違反と言われる法案を無理押ししようとしている。


 こうなると、政権交代可能な民主政治などという贅沢を言わず、政治権力を一定の枠の中に収めるという立憲主義というレベルで歯止めをかける必要がある。安保法制に反対を叫ぶ市民の頭の中がこのように整理されているわけではないが、政治の暴走を止めるという課題には、市民の素朴な共感を得られるだろう。


 立憲民主主義を守るという運動を開始した者にとって、運動の広がりはうれしいことである。しかし、ある種の先取りした挫折感も覚える。何かの僥倖で安保法制の成立を阻止できたとしても、自民党が心を入れ替えるわけはない。安倍の次をにらんでいる候補者の中には、安倍と同類かもっと右寄りの政治家もいる。野党の支持は広がっているわけではなく、政権交代によって自民党政治に歯止めをかけることに期待が高まっているわけでもない。


 立憲主義の運動が、おごれる権力者に対するモグラ叩きになれば、運動する側も疲弊して長続きはしない。憲法を無視する権力者は選挙で国民に厳しく罰せられるという慣行を作り出す必要があるのだが、それには自民党に取って代わる政治主体を作り出さなければならない。3年前に民主党が下野して以来、同じことを言い続けていることには疲れを覚えるばかりであるが、やはり言い続けなければならない。憲法と平和を守れと動いている市民のエネルギーを受け止めるために、野党は重要な政策課題にかんする最小限綱領を作って、受け皿を作るべきである。来年の参議院選挙こそ、立憲民主政治の存続が問われる場面となる。


週刊東洋経済8月29日号


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