2015.12.19 Saturday 18:58

戦後デモクラシーはどこへ行くか

 戦後70年の年の最後の時評なので、今年を振り返ってみたい。今年は安保法制の成立という平和国家路線からの大きな転換が起こった。政治学の世界でも、松下圭一、篠原一など、1920年代生まれで青年時代に戦争を経験し、それを土台に政治学研究を深めていった学者が相次いで亡くなった。戦後政治学の終わりを痛感させられる。これらの学者は、敗戦後占領軍によって与えられた制度としての民主主義を、理念や精神として、あるいは実践や行動として日本に定着させることを目指して、長年思索と発言を続けた。


特に、松下、篠原両氏に共通するのは、政治を論じる時の時間軸の長さと、突き抜けた楽観主義である。松下は今から50年前から、情報公開と参加に基づく分権と自治を主張し続けた。沖縄県の反対にもかかわらず辺野古の新基地建設を強行する中央政府の姿勢を見れば、地方分権など夢のまた夢と感じるかもしれない。しかし、県があそこまで戦い、裁判を通して国の非違を糾せるということは、20年前までは考えられない事態であり、やはり分権は進んでいるということもできる。


 安倍晋三政権が安保法制を実現し、メディアに対する威嚇を躊躇しなくなり、それにもかかわらず支持率を回復しつつある今、安倍的なものに対抗する選択肢を作るために、我々、の政治的楽観の能力が問われている。今、安倍政権は盤石に見える。しかし、長い目で見れば自民党の統治能力の低下、支持基盤の浸食は明らかな現実である。国政選挙における得票を見ても、比例代表では自民党は国民の3分の1の支持を得ているにすぎない。


 そんなことを考えながら、『世界』の201011月号に掲載された篠原一のインタビュー、「トランジション第二幕へ」を引っ張り出して読み返した。このインタビューは、政権交代の後、参院選で敗北し、民主党の風向きがおかしくなったときの、篠原による現状分析であった。その中で、篠原は次のように語っている。


「こういう変動の時期は、ものごとをイベントや点として見るのではなく、長いプロセスとして、線として見る発想を常に持っていなければいけないと思うのです。(中略)

 日本人はせっかちだから、すぐ「改革をほとんどやっていないじゃないか」という。そのためにもトランジション(政権移行)という概念を導入したほうがよいのではないかと思うわけです。トランジションは革命ではないから、長い時間がかかる。(中略)

 日本の場合、(55年体制が)成功したからこそ、その体制が長く続いたわけなので、これを転換することは容易ではない。逆行したり、元に戻ったりすることもある。トランジションとはそういうものなのです。」


 今の安倍政治全盛だけを見ていると、2009年の政権交代など遥か昔の話に思える。しかし、自民党による一党支配を転換する日本政治民主化のプロジェクトは、始まってまだ6年しかたっていないと思えば、まだこれから頑張ろうという気が起こってくる。

 

 実際、自民党の劣化は明らかであり、政権の永続化を図るなら自重すべき場面で、権力者はこれほど強いのだぞという示威をしたがるあまり、滅茶苦茶なことをしている。沖縄における辺野古の新基地建設を遮二無二進め、沖縄の民意を踏みにじることもその一例である。歴史認識に関して、およそ世界では受け入れられない修正主義を前面に出していることも、その表れである。南京虐殺に関する資料が中国の申請により世界記憶遺産に登録されたことに対して抗議するために、南京虐殺自体がなかったとする右派学者を外務省が国際会議に送り出したことなど、エリートの間に反知性主義が蔓延していることを物語る。これは、天文学会に天動説を主張するカトリックの僧を派遣するようなものである。一時的には無理を通せば道理は引っ込むが、道理を無視した権力の横暴は長続きしない。これは歴史の真実である。


 篠原の言う逆行が想定以上に強力であることは認めなければならない。日本の保守政治における右バネは頑強であり、2000年代の民主党の台頭に対抗する形で右派的ナショナリストが草の根レベルでの組織化を進めてきたことがいま結実している。しかしそのような極端なイデオロギーが一般国民に浸透しているとまでは言えないであろう。安倍政権に対する支持はある程度回復しているものの、個別の政策課題に関する意見を問われれば、原発再稼働、安保法制、アベノミクスの効果などに関して、多数の国民は安倍政権の推し進める路線に反対していることを、各種世論調査は示している。とりわけ安保法制に対して、政治に関心を持つ市民層から強い反対の運動が現れたことは、安倍流の戦後レジーム打破に強い抵抗が働くことを物語っている。


 逆行を乗り越えてトランジションを再び前に進めるためには、来年の参議院選挙が極めて大きな意義を持つ。安保法反対運動の高揚を受けて、共産党の志位和夫委員長が野党結集を呼び掛けて2か月以上経過するのに、民主党が態度を明確にしないまま時間を空費している。野党の提携ができないまま参院選に突入すれば、民主党の惨敗は必至である。民主党が、選挙区でも比例代表でもそれぞれ一桁の議席しか取れないという結果になれば、民主党は二大政党の一翼という地位を失い、自民党による一党優位体制の復活が決定的となる。そうなると、逆行が一時的現象ではなく、トランジション自体が烏有に帰することになる。


 参院選の帰趨は一人区の勝敗が決めると言っても過言ではない。一人区で互角の戦いをしなければ、自民圧勝を食い止めることはできない。民主党が野党結集のイニシアティブを取り、安倍政治に不安を持つ国民の受け皿を提供できるかどうかは、民主党の命運を左右するだけでなく、日本の多元的民主政治の可能性を決めるのである。岡田克也代表のリーダーシップが問われている。


週刊東洋経済12月12日


2015.08.28 Friday 14:41

戦後70年のデモクラシー

 安倍晋三首相は、政権復帰以来の株価と支持率の上昇に支えられ、無人の野を行くがごとく、政策目標を実現してきた。しかし、安保法制に対する反対論が高まるなかで戦後70年の終戦の日を迎え、様々な制約の中で政権を運営させられていることを実感しているに違いない。


 1つの制約は、国際世論である。当初、安倍首相は自らの歴史観を盛り込んだ戦後70年談話を出すことに強い意欲を示していた。しかし、侵略や植民地支配を否定する右派的な歴史観は、アジアのみならず欧米からも受け入れられないことは明らかであった。日本が国際社会の中で生きて行くためには、首相が唯我独尊の歴史観を公表してはならない。安倍談話は首相個人の思いからはかけ離れたものとなり、長々しい文章のゆえにメッセージ性は薄くなった。


 首相は日本の次の世代に戦争について謝罪し続ける宿命を負わせたくないと、首相らしい表現を使った。侵略や女性の権利などに言及したことへの悔しさをここで晴らそうとしたのだろう。首相やその取り巻きの右派政治家が侵略を否定し、植民地支配を正当化する限り、次の世代の日本人はアジアの国民に謝罪を続けざるを得ない。この構図を首相は理解しているのだろうか。


 もう1つの、そしてより大きな制約は民意である。日本が民主主義国である以上、為政者が民意に制約されるのは当たり前である。今まで高い支持率の上におごってやりたい放題をしてきたことの方が異常であった。安倍政権が推進する安保法制はきわめて不出来な代物であり、国会審議における政府答弁は破綻している。首相は、衆議院の審議では集団的自衛権の行使の事例としてホルムズ海峡の機雷除去をあげていたが、それが荒唐無稽であることが明らかになると、参議院の審議では中国の脅威を強調し始めた。安保法制は日本の安全を確保するための手段ではなく、それ自体が目標である。日本社会や国民生活にかかわる実体的課題を後回しにして安保法制に狂奔する安倍政権には、国民の存在は目に入っていないようである。


 私は昨年71日の、集団的自衛権行使を正当化する閣議決定を前に、政治学や憲法学の研究者とともに立憲主義を擁護するための運動、立憲デモクラシーの会を結成した。戦後日本に定着した憲法9条の運用を安倍政権が閣議決定で変更することは、憲法による政治権力の制約という立憲主義を破棄するものだという危機感を持って運動をしてきた。今年の6月以降の世論の変化は、正直なところ想像を超えたものである。


 衆議院憲法審査会で3人の憲法学者が安保法制について憲法違反だと断言したことから、安保法制について異論を唱えたり反対したりすることは正しいのだという解放感が、メディアや関心を持つ市民の意間に広がった。66日に立憲デモクラシーの会が東京大学法学部の教室で、憲法学の泰斗、佐藤幸治京都大学名誉教授、樋口陽一東京大学名誉教授と石川健司東京大学教授による講演とシンポジウムを開催したところ、会場には教室の定員の倍を超える千五百人以上の市民が詰めかけた。会場の雰囲気は異様と言ってよいものであった。安保法制という道具が日本政治の土台を突き崩すのではないかという憂いが充満していたと私は思った。佐藤氏は直接安保法制には言及しなかったが、人類、そして日本人が苦闘の末に確立した立憲政治を今覆すことは許されないと、熱を込めて説いた。なお、この時の佐藤講演は『世界史の中の日本国憲法』(左右社)として刊行されている。


 立憲主義という言葉は、戦前の日本では藩閥や官僚による支配に対抗して、政党勢力が使ったシンボルであり、人口に膾炙した。しかし、権力の暴走を防ぐという消極的なメージで、民主主義よりも後退している感覚があり、戦後民主主義の中では、しばらく忘れられていた。今回の安保法制をめぐる議論を契機に、立憲主義という言葉が流布している。この20年ほど、我々は十全な民主主義を目指して試行錯誤を続けたが、自民党以外に政権の担い手がいないという身もふたもない現実を再発見しただけであった。しかも、その自民党はかつての幅広さや慎重さを失い、議員経験も浅い、ネトウヨと見まがう政治家が跳梁跋扈している。そして、憲法違反と言われる法案を無理押ししようとしている。


 こうなると、政権交代可能な民主政治などという贅沢を言わず、政治権力を一定の枠の中に収めるという立憲主義というレベルで歯止めをかける必要がある。安保法制に反対を叫ぶ市民の頭の中がこのように整理されているわけではないが、政治の暴走を止めるという課題には、市民の素朴な共感を得られるだろう。


 立憲民主主義を守るという運動を開始した者にとって、運動の広がりはうれしいことである。しかし、ある種の先取りした挫折感も覚える。何かの僥倖で安保法制の成立を阻止できたとしても、自民党が心を入れ替えるわけはない。安倍の次をにらんでいる候補者の中には、安倍と同類かもっと右寄りの政治家もいる。野党の支持は広がっているわけではなく、政権交代によって自民党政治に歯止めをかけることに期待が高まっているわけでもない。


 立憲主義の運動が、おごれる権力者に対するモグラ叩きになれば、運動する側も疲弊して長続きはしない。憲法を無視する権力者は選挙で国民に厳しく罰せられるという慣行を作り出す必要があるのだが、それには自民党に取って代わる政治主体を作り出さなければならない。3年前に民主党が下野して以来、同じことを言い続けていることには疲れを覚えるばかりであるが、やはり言い続けなければならない。憲法と平和を守れと動いている市民のエネルギーを受け止めるために、野党は重要な政策課題にかんする最小限綱領を作って、受け皿を作るべきである。来年の参議院選挙こそ、立憲民主政治の存続が問われる場面となる。


週刊東洋経済8月29日号


2015.07.20 Monday 22:24

政治家の劣化と政治権力の空洞化

 自民党の文化芸術懇話会という会合で、議員たちが批判的なテレビを懲らしめるために広告主である大企業に働きかけようとか、沖縄の県民世論が左傾化しているのを何とかしたいとか、埒もない与太話で気勢を上げていたことは、政治家の劣化を印象付けた。政治家の一部が知性と品性を欠いていることは確かだが、そのことに目を奪われて、日本の政治権力におけるもっと重大な欠陥を見過ごすことがあってはならない。


 今、安保法制と並んでいくつかの重要な政策決定が行われようとしている。それらに共通しているのは、かつて丸山真男が日本の戦争に至る政策決定を分析する中で析出した「無責任の体系」である。丸山によれば、日本における無責任な政策決定には次のような特徴がある。第一に、現実を直視せず、希望的観測で現実を認識したような自己欺瞞に陥る。第二に、既成事実への屈服。事ここに至っては後戻りできないと諦め、誤った政策をずるずると続ける。第三に、権限への逃避。誤った政策が事態を悪化させることを認識しても、自分にはそれを是正する力はないと、自分の立場、役割を限定したうえでそこに閉じこもり、政策決定の議論から逃避する。こうした特徴を持つ無責任な政策決定によって、日本は七〇年前、敗戦という破局にいたった。


 それから七〇年、最近の重要な政策決定を見るにつけ、政治家、官僚というエリートの無責任体質は変わっていないと痛感する。その悪しき意味での持続性には、驚嘆、嘆息するしかない。第一の例は、新国立競技場の建設である。これについては本誌の先週号に玉木正之氏による詳しい分析が載っていた。経費は桁違いに大きく、財源調達のめども立っていない。技術的な難題もクリアされていない。それにもかかわらず、文部科学省の官僚は二〇一九年のラグビー、ワールドカップに間に合わせなければならないとか、ここまで来たらキャンセルできないという理屈で、工事の契約をしようとしている。財務省は、財源調達は文科省の仕事と突き放していると報じられている。そうなると国立競技場のために本来の教育予算が削減されることもありうる。ついでながら、こんな無能な官庁の役人に大学や学問について口出しをされることへの大学人の憤懣を、読者にはご理解いただきたい。


 第二は、六月三〇日に閣議決定された「経済財政運営と改革の基本方針(骨太の方針)」である。そこでは、二〇二〇年にプライマリーバランスの黒字化を実現するという目標が設定された。しかし、そこでは社会保障費の伸びを今後三年間で一・五兆円に抑えることや、実質二%、名目三%超の高い経済成長率が続くことが前提とされている。まさに希望的観測に基づく皮算用である。


 第三は、安保法制である。これについて言うべきことは多いが、ここでは一点だけ批判しておく。自衛隊の海外における他国軍への後方支援活動は安全だと政府は言い張る。しかし、野党や多くの識者が指摘しているように、後方支援は武器、弾薬、燃料等の補給活動、すなわち兵站である。兵站は戦闘そのものである。これを安全な後方支援と名付けるのは日本政府の勝手ではあるが、国際的に通用する論理ではない。日本の同盟国と戦っている敵国は遠慮なしに自衛隊を攻撃するに違いない。集団的自衛権を行使して戦闘に参加するならば、最初からその本質を自衛隊員と国民に説明し、覚悟を求めるのが指導者の責務である。自衛隊は武力行使をしているわけではないのだから、敵国やテロリストはこれを攻撃しないというのは、犯罪的な欺瞞である。


皮肉なことに安倍晋三首相は指導者として決断を下すことが大好きである。憲法解釈については私が最終的責任者だと主張し、安保法制については時期が来れば採決しなければならないと言う。決定への意欲が無責任な政策の選択をもたらすのはなぜか。それは政治家や官僚が問題の本質を理解する知力を持っていないからである。日本政治を毒している反知性主義の弊害といってもよい。反知性主義について、佐藤優氏は「実証性や客観性を軽視もしくは無視して、自分が欲するように世界を理解する態度」と定義している。件の自民党の懇話会で百田尚樹という作家が行った講演は、自分が欲するように世界を理解することの典型例である。それをありがたがる議員が安倍首相の親衛隊だというのだから、病は深刻である。


安倍首相は、選挙で勝利し、国会で多数を握っていることで、自分の行為をすべて正当化している。いまや、首相と自民党は多数派であることによって、自分たちの持つ偏見や先入観をも正当化しようとしている。安保法制に関して国会で野党の追及を受けても、最後は、安保法制は合憲で、自衛隊の活動は安全だと「確信している」と言って議論を打ち切る。中世の欧州人は太陽が地球の周りを回っていると信じていた。確信の強さは信条の中身の正しさとは無関係である。確信の根拠と論理を説明するのがまっとうな議論である。


希望的観測や先入観をもとに政策を考えれば、失敗するに決まっている。戦後七〇年の今、国を滅ぼした無責任の体系を反省するのではなく、反知性主義に染まった政治家と官僚がそれを繰り返し、一層無責任な政策決定を進めようとしている。この風潮をいかに止めるか。反知性主義者に知的になれと説教をすることには意味がない。しかし、偏見をむき出しにして権力を使う政治家を次の選挙で落選させることはできる。また、反知性主義の蔓延をこれ以上広げないために、野党やメディアがなすべきことは多い。沖縄の二つの地方紙がそうしたように、無知や偏見に対してメディアと言論人は徹底的に戦わなければならない。また、野党が今なすべきことは、中途半端な対案を出すのではなく、政府の欺瞞をあくまで追求し続けることである。

 

週刊東洋経済7月11日号


2015.06.16 Tuesday 16:32

安保法制と戦後日本の総括

 安全保障法制の国会審議が始まった。その冒頭、527日に安倍晋三首相は集団的自衛権の行使の際に他国の領域における武力行使の可能性があることも認め、戦時の機雷掃海のみを例外としてきた従来の方針を転換した。質疑の中では、武力行使が現実化する様々な例外が次々と繰り出され、一連の法制が武力行使の歯止めにならないことが明らかになっている。安倍政権が目指す安全保障政策の転換は、日本の戦後の歩みをどう評価するかという問いと密接に関連する。70周年の敗戦の日に向かって、我々は戦後史の意味と、日本の国家路線とを合わせて考える必要がある。


安倍首相は、5月の訪米の際、議会で演説し、米国の政治家や国民に向かって、戦後日本の民主政治の安定と繁栄を誇り、それは米国と価値観を共有し、協力してきたから可能になったと述べた。彼の指摘は正しい。日本は、事実上米国が原案を作った憲法の下で、民主主義と繁栄を実現した。この筋書きは、ポスダム宣言で示された日本再建の路線そのものである。党首討論で、安倍は志位和夫共産党委員長の質問に答え、ポツダム宣言を審らかに読んでいないと言った。読んでいないのは勉強不足だが、自分が米国で誇らしげに語った戦後日本の歩みがポツダム宣言に由来することくらいは認識しておくべきである。


安倍はかつて、現行憲法を「みっともない」と呼び、憲法改正こそ自らの使命という信念を持っている。彼が自己の確信に忠実であるなら、米国で憲法を押し付けられたことに抗議し、いち早く自主憲法を作ると宣言すべきである。しかし、彼にはそのような度胸はない。米国に向かっては戦後の民主体制を作ってくれたことに感謝し、日本に帰ったら憲法改正を唱える。まさに安倍は不誠実この上ない政治家である。安倍における分裂症こそ、白井聡氏の言う永続敗戦体制の本質である。


集団的自衛権の行使容認に対して、日本が他国の戦争に巻き込まれる恐れがあるという批判がある。これについて、安倍は514日の記者会見の中で、過去の安保条約をめぐる論争を振り返り、巻き込まれるという批判が的外れであることは、歴史が証明していると言った。この点でも彼は戦後史を正確に理解できていない。


彼が尊敬する祖父、岸信介が日米安保条約の改定ののち、宿願であった憲法改正と国軍設置にまで成功していたら、日本は1960年代末から、韓国と同じようにベトナム戦争に米軍とともに参加する羽目に陥っていたに違いない。日本が戦争に行かなくて済んだのは、1960年の安保闘争で市民が岸信介首相を退陣に追い込み、戦後憲法体制を守ったからである。憲法9条が存在し、集団的自衛権の行使を禁止したからこそ、日本はベトナムに派兵せずに済んだのであり、米国も日本にそのような要求をすることは無理だとわかっていた。60年の市民の運動は、それ以後の自民党政権にも大きな教訓をもたらした。自民党も国民もイデオロギー闘争ではなく、現行憲法が保障する民主政治と市場経済の体制の中で、経済発展に専心することで、繁栄は実現できたのである。


昨年7月に、安倍政権が憲法9条の解釈を変更し、集団的自衛権の行使を可能にした時、首相は日本人の生命、安全を守るために必要な限りで、武力行使を行うと説明した。しかし、今回の安全保障法制では、話がすり替えられ、「平和」を作り出す作業について日本も一端を担うことが武力行使の目的とされている。安倍政権は積極的平和主義というスローガンの下、後方支援、つまり兵站を通して米国等の友好国が繰り広げる平和の敵を成敗する戦いに参加し、地球上のどこへでも出かけると意気込んでいる。しかし、歴史を振り返ればベトナム戦争からイラク戦争に至るまで、米国が平和のためと称して始めた戦争は大義のない武力行使であった例がある。だから、米国と一蓮托生で武力行使をすることは、日本自身の安全とは無関係である。


 半世紀前とは安全保障環境が違うという議論もある。中国の台頭は事実である。それにしても、日本は個別的自衛の枠組みの中で安全保障政策を考えればよいのである。地球の裏側にまで自衛隊を派遣すれば、それだけ領土、領海の防備はおろそかになる。日米同盟の強化による抑止力強化と政府は繰り返すが、米国の指導者は尖閣諸島をめぐる日中間の対立は平和裏に解決せよと繰り返し述べてきた。外交努力なき防衛力強化は、むしろ緊張を高めるだけである。また、自爆をいとわないテロリストとの戦いの中では、抑止力は無意味である。自ら平和を作り出すための外交を展開するためには、第2次世界大戦に関する歴史認識について世界の常識を共有することが大前提となる。それなくして、中国が歴史認識を武器として利用するのを抑え込むことはできないからである。


 結局、安倍首相の頭の中では、戦後憲法体制を破壊することがそれ自体目的となっている。安全保障法制はそのための手段である。だから、防衛政策の枠組みとしては矛盾に満ちたものなのである。自分の主観的満足を目的とする安倍首相は、矛盾を指摘されても何ら痛痒を感じない。このような状態こそ、日本の立憲民主主義にとっての存立危機事態である。


 安全保障法制をめぐる国会審議は、これからの日本の民主主義の命運を左右する大きな分岐点となる。「戦争は平和だ」というジョージ・オーウェルの言う新語法が定着すれば、今後日本で民主的な討論は成立しなくなる。与党の圧倒的な数的優位の中、法案成立を阻止することは難しい。しかし、結果はともかく、法案審議の過程で政府指導者の思考能力喪失と不誠実さを暴き出すことには意味がある。このような政権を持続することが、日本人の生命と安全に資するかどうか、国民に真剣に考えさせることこそ、野党とメディアそして言論人の責務である。


週刊東洋経済6月12日号


2015.04.04 Saturday 20:29

政治家と価値観

 新年度予算が衆議院を通過し、国会論戦のテーマは安保法制の整備に移ることとなる。安倍晋三内閣は、昨年71日の集団的自衛権行使容認の閣議決定を具体化するのみならず、自衛隊の海外派遣を広範に可能にするという法律整備を打ち出している。自民、公明両党が協議を続けているが、政府自民党が過大な提案をし、公明党の出番を作る形で若干の修正をするという出来レースのようである。安倍政権は、平和国家あるいは町人国家と言われた戦後日本という国の性格を変え、国際社会におけるサムライの仲間に入ることに執心している。ナショナル・アイデンティティ(国是)をめぐる政治が70周年の終戦の日に向かって政治の大きな争点となるであろう。

 たんに武力を行使したいというだけでサムライの仲間に入れてくれと言っても、他国は相手にしてくれない。したがって、実力行使には何らかの大義名分が必要となる。この政権が価値観の問題について従来の政権よりもはるかに雄弁なのは、その点に由来する。

 政治は一面で権力をめぐる争いであり、綺麗事だけでは通用しない。それだからこそ、規範や建て前が重要となるということもできる。綺麗事を一切否定すれば、政治は単なる野獣の行動と同じになるからである。過去の歴史の中で権力者が虐殺・粛清や差別を行ったことは、今日では絶対的悪として否定されている。また、人間の尊厳や自由という基本的価値に帰依することは、政治家が文明社会の一員とみなされるための絶対的必要条件となる。その点で、主義主張は違っても政治の土台となる価値を共有するという気風を培うことは、日本では戦後70年たってもできていない。

 衆議院予算委員会における質疑を見ても、安倍という人は価値観を語るに足る知性、品性を備えていないと痛感させられた。民主党の議員が西川公也前農水相の政治献金問題を質しているときに、安倍首相は日教組の献金はどうするのとヤジを飛ばした。首相は日教組が事務所を置く日本教育会館から民主党議員に政治献金が行われているので相打ちだと言いたかったようだが、そのような事実は存在しない。つまりこれは単なる言いがかりである。9年前に民主党の若手議員が偽メールをもとに、自民党幹事長が裏金をもらったと追及したことがあったが、首相のヤジもそれと同列である。ただし、首相の場合は虚偽が判明した後も悪びれることなく、遺憾の意を表明しただけであった。他人の意見をよく聞いて議論しようとか、嘘や偽りで他人を貶めてはいけないというのは、小学生に教え諭す議論のルールである。つまり、わが国の首相の品性は小学生並みということである。

 安倍首相が民主主義や人権という価値を共有すると主張しても真剣さが伝わってこないのは、価値観をめぐる言動と実践の間に大きな距離があるからである。先日、曽野綾子氏が南アフリカのアパルトヘイトを例に出して、人種隔離を是認する文書を新聞に書いた。アパルトヘイトそのものをどう思うかと言われれば、政治家はみなこれを否定するだろう。しかし、アパルトヘイトを是認するような人物を政府の主要な審議会のメンバーに据えることは、アパルトヘイトを容認することを意味する。それが世界の常識である。曽野という人が人権や差別についてどんなことを言ってきたかは明らかであり、政治家の側が知らなかったと言い訳できる話ではない。どこの国にも差別を肯定する人間はいるものだが、そうした人々は政治の中で居場所を与えられないキワモノである。日本の場合、キワモノが権力と近い所に位置し、影響力も持つ。だから、日本の政治家は人間の尊厳という価値について真面目ではないと映るのである。

 言論の自由についても、安倍政権が実際にしているのは、たとえばNHKの会長と経営委員の人事に介入して、自分と親しい人間にNHKをコントロールさせることである。最近、経営委員長代理を退任した上村達男氏は籾井会長の発言が放送法違反だとはっきりと批判していた。これは異常事態であり、それをもたらしたのは政権の人事介入である。

 価値観にかかわる政治課題として、戦後70年談話と憲法改正の2つがこれからの大きな争点となるだろう。憲法改正については、最近自民党の推進派の主張がやや柔軟化している感がある。9条や人権規定など、自民党らしさが表現される部分よりも、環境権や私学助成など抵抗の少ない部分を先行させるという主張が相次いでいる。自民党の改憲草案は国民の理解を得られるものではないと、自民党の政治家自身が理解しているのであろう。

 70年談話については、この談話のありかたを論じる有識者会議の座長代理である北岡伸一氏が昭和の戦争について日本の侵略という性質は明らかと主張している。北岡氏の思いは、歴史認識についてのグローバルスタンダードを日本が共有したうえで、まさに価値観の土台の上に安定した日米の同盟関係を構築したいということだろう。日本が世界のサムライの仲間に入れてもらうためには、過去の戦争を正当化してはならないという厳しい現実を北岡氏は安倍首相に伝えたいのだと私は理解している。

 安倍首相が価値観を前面に打ち出すことは、実は自ら大きなリスクを作り出していることを意味する。彼が技量のある政治家で、自分の個人的思いと日本の指導者としての役割とを区別する知性と策略を持っているなら、北岡氏の建言を容れて、安倍らしからぬ談話を出すはずである。安倍首相が個人的な思いに固執して、世界の常識と相容れない価値観を正直に打ち出せば、それは日本に対する不信を招来し、安倍首相の権力基盤自体も大きく揺るがすことになるだろう。

 価値観に触り、それを争点化するということは、政治家の知的器量がじかに問われる場面を作り出すことになる。


週刊東洋経済3月28日号


2014.10.29 Wednesday 17:48

時代に逆行する安倍政治

 

 先月の本欄で、私は日本版マッカーシズムの出現と書いたが、世の中の風潮は依然として殺伐としている。右翼の脅迫状ではなく、有名な出版社の雑誌や本に、国賊、売国奴といった言葉が使われている。言論における品位やマナーが消えうせたようである。


 意見を異にする者を公平に扱うということは、近代社会の最も重要なメルクマールの1つである。明治初期に『明六雑誌』に加わった西村茂樹という思想家は、「賊説」(岩波文庫版『明六雑誌(下)』所収)という論説を1875年に発表している。これは今読んでも興味深い。西村は大略、次のように述べている。賊という字は、殺人、強盗を働く者の意味であり、君主に敵対する者を指す語ではない。そうした用法は古い中国の悪習であり、中国の驕りを笑う日本人が同じ言葉を使うのは奇妙である。君主に敵対する者の中には、暴政を止める、人民を救うという動機の者もおり、これを賊と呼ぶのは適当ではない。君主を助ける者の中にも賊と言うべき者はいる。


 21世紀の日本で国賊などという言葉を使う者は、近代国家にふさわしい言論空間を作るために苦労していた先人の知恵を想像すべきである。やみくもに自国を正当化するのが愛国の所業ではない。自国の歴史を虚心坦懐に振り返り、罪を潔く認め、償いをすることこそ、日本の名誉を保つ。対立する論争相手を国賊と罵倒するということは、日本の言論が明治以前に逆戻りしたことを意味する。言論に携わる者は、須く頭を冷やして、言葉遣いを正すべきである。


 安倍首相が内閣改造を行って以後、政権支持の浮揚を期待された女性閣僚が公職選挙法の初歩的なルール違反や、極右団体との関係で、政権の足を引っ張る形となっている。閣僚が地元の有権者に金品を供与するなど、言い訳のできないルール違反であり、小渕経産相も松島法相も閣僚の資格はない。


しかし、高市早苗、山谷えり子両大臣の極右団体とのつながりのほうが、問題は深刻である。それらの極右団体は人種差別を公言し、在日韓国・朝鮮人に対する脅迫や嫌がらせを繰り返し、中には罪に問われた者もいる。山谷氏が一緒に写真に納まったのはそのような犯罪者の一人である。同氏は、外国特派員協会における講演の際、外国人記者から在特会の政治活動に関する認識を問われ、評価を回避した。


朝日新聞の報道よりも、大臣のこのような態度の方が日本の名誉を傷つけている。民主主義国の指導的政治家は、自由や多様性を脅かすテロリズムと常に戦う義務を負う。高市、山谷といった政治家が本当に自由と民主主義を守るなら、ネオチや在特会などの極右集団を断罪しなければならない。それらの集団にも「言論の自由」を認め、価値相対主義の範疇で存在を認めるという態度を取れば、そうした政治家は自由の敵とみなされるのが欧米の常識である。


安倍首相は、中国に対抗する意図を込めて、日本は自由、民主主義、基本的人権、法の支配などの価値観を欧米と共有すると繰り返し述べてきた。さらには、地球儀を俯瞰する外交を展開して、国連安保理の常任理事国入りも目指すと報じられた。救いがたい愚鈍さと自己中心主義である。


常任理事国は第2次世界大戦の戦勝国による排他的クラブである。第2次世界大戦における侵略や蛮行を否定するような国家指導者が、常任理事国に迎え入れられるはずがないではないか。人種主義と歴史修正主義に親近感を持つ閣僚を多数抱える内閣のトップが、自由や民主主義を口先で唱えても信頼されるわけはない。首相は、朝日の誤報によって日本の名誉が傷つけられたと言っているが、これも外から見れば的外れである。日本を不可解な国にしているのは自国の過去の罪業を否定しようと躍起になっている政治家である。


日本政治について、国の内外でメディアの評価が大きく乖離している。国内メディアの一部は朝日攻撃を繰り返し、日本は潔白な国だというナルシシズムを広めようとしている。海外のメディアは、安倍政権が自由と民主主義の担い手であるかどうか懐疑的になっている。情報化とグローバル化が進んでいる今日、日本のメディアがこれほどまでに冷静な自己認識を失っているのは、奇妙な話である。外交官・石射猪太郎は、19379月の日記の中で、「外字新聞を見ねば日本の姿がワカラヌ時代だ」と書いたが、情報化とグローバル化の進んだ現代も同じ時代となった。


政治学者、丸山真男は最晩年にオウム真理教によるテロ事件を見た。その後、教え子が集まった場でそれについて次のような感想を述べた。自分はオウムの信者を見ても、驚かなかった。第2次世界大戦のさなかは、日本全体がオウムのようだったからだ。丸山は、日本社会に画一主義(conformism)の土壌があり、それが猛威を振るうとき自由や民主主義は吹き飛ばされると言いたかったのであろう。


前回の本欄で米国のマッカーシズムについて触れたように、画一主義は欧米でも起こりうる。だが、欧米には復元力も存在する。日本で復元力を働かせるためには、与党内の良識派や野党の政治家が声を上げることが必要である。また、メディアや学者も報道の自由や学問の自由をこういう時こそ発揮しなければならない。


小渕経産相、松島法相の辞任は安倍政権の動揺を招くであろう。しかし、小渕氏や松島法相の金品供与問題のかげで、極右勢力と親密な女性閣僚が延命するならば、日本政治の劣化は一層進むことになる。高市、山谷両氏は秋の例大祭で靖国神社に参拝したわけで、首相としてもこのタイミングでの責任追及は考えていないだろう。政党政治が腐敗、無力化し、メディアや大学が右翼の脅迫によって萎縮し、批判的知力を失っていき、最後は国民自らが自由と民主主義を放棄するという80年前の失敗が現状と重なって見える。


週刊東洋経済10月25日号


2014.09.25 Thursday 17:43

多元的民主政治の危機

「週刊東洋経済」最新号に載せたコ

日本版マッカーシズムについて論じている


 朝日新聞が、従軍慰安婦問題や吉田昌郎・元福島第一原発所長の証言について誤報を行ったとして謝罪や記事の撤回をしたことから、右派メディアや政治家の朝日新聞攻撃が激化している。これは一新聞社のありかたにとどまらず、日本における政治的言論の行方、さらには民主政治の方向に大きな影響を与えかねない問題である。

 事実を報道することを使命とする新聞社が誤報について謝罪、訂正するのは当然である。また、池上彰氏の朝日に対する批判的な文章を掲載しないとした編集局の当初の判断は、言論の自由に関する見識を疑わせた。

それにしても今、嵩にかかって朝日を攻撃している読売、産経の両紙の姿は、はっきり言って異常である。両紙ともに数々の誤報を行った。たとえば、読売は菅直人首相(当時)の指示によって福島第一原発への海水投入を中止させたと報じたが、これは誤報である。さらに、当時野党議員であった安倍晋三氏はこの新聞報道等をもとに、ブログで菅氏を非難した。安倍首相については、昨年のオリンピック招致の際の「原発の汚染水はアンダーコントロール」という嘘も記憶に新しい。読売や安倍氏がこれらの誤りについて謝罪、訂正したという話は、寡聞にして知らない。従軍慰安婦を強制的に連行したという吉田清治証言については、産経新聞も同様に報じていた。同じガセネタをつかまされて同じ誤報をした自分の責任には触れず、もっぱら他紙を叩くなど、まともなジャーナリズムのすることではない。

 自民党の政治家及びこれを応援するメディアは嘘をついても反省もせず、非難も受けない。自民党に批判的なメディアについては、体制寄りのメディアと政治家が部分的な誤報をこれでもかとばかり批判し、報道全体の信憑性を否定しようとする。そして、批判的メディアは委縮していく。

 この構図は、1950年代にアメリカで猛威を振るったマッカーシズムと同じである。当時のアメリカでは、ソ連や中国の台頭に対する危機感が広がり、議会で非米活動の追及が行われた。その先頭に立ったのがマッカーシー上院議員であった。そして、共産主義シンパとみなされた外交官、学者、俳優などが職を追われた。でっち上げや偽証に基づく追及も多かった。

非米を反日、共産主義を韓国や中国に置き換えれば、現在の日本の風潮そのものとなる。実際、朝日新聞で慰安婦問題を追いかけてきた元記者は、退職後ある大学の教授に就任する予定だったが、大学に対する右派メディアと右翼の執拗な攻撃、嫌がらせによってその話はつぶされた。この元記者は別の大学で非常勤講師を務めているが、その大学にも嫌がらせが殺到し、仕事を続けられるかどうか危ぶまれている。今の大学人は、学問の自由や表現の自由を守るために権力や社会的圧力と戦った経験を持たないので、原則を簡単に曲げる場合もある。

問題は、日本にエド・マーローがいるかどうかである。ジャーナリストのマーローはマッカーシズムの虚偽を見抜き、自らがホストを務めるCBSテレビの番組でマッカーシーを追及した。映画『グッドナイト・グッドラック』は、マーローの戦いを描いた作品である。これを契機にマッカーシーの権勢は急速に衰退し、上院で非難決議を受けた。マーローはアメリカ社会の復元力の象徴である。日本のマーローを探すというのは他力本願の話で、学者もジャーナリストも、自由で多様な言論空間を守るために発言を続け、それぞれがマーローの果たした役割を今担うという覚悟を持たなければならない。

特に重要な課題は、問題の全体像を的確に把握する作業である。朝日の誤報責任は重いが、一部分が否定されたからといって、慰安婦や原発に問題がなかったことにはならない。一部分の誤りによって全体を否定すれば、過去の戦争を正当化したいとか、原発を一刻も早く再稼働したいと願っている特定の勢力に都合の良い結論を導くだけである。

吉田清治証言が主張した暴力的な誘拐による慰安婦調達という話は嘘だった。だが、それは慰安婦問題がなかったことを意味しない。国際社会は、多くの朝鮮半島出身の女性、さらにインドネシアにいたオランダ人女性が、人身の自由を失った状態で兵士の性欲処理のために酷使されていたという事実を問題にしている。それは、安倍首相自身が言う「女性の人権」の問題なのである。狭義の強制の不在を主張したところで、何の意味もない。

吉田昌郎調書の最も重要な点は、現場責任者が福島第一原発の現状を見て東日本壊滅の危機だと認識したことである。吉田調書の一部を組み立てて、現場職員が英雄的に頑張ったという物語を作ることも、事実の否定である。むしろ、東電幹部の証言も含め、あらゆる情報を公開して、事実を正確に記録することこそ、現代の日本人が世界や次の時代に対して果たすべき責任である。

民主主義という政治体制は、意見が異なっても政治的競争のルールとなる基本原則を皆が承認することによって成り立っている。言論、報道、学問に関する自由は、その中でも最も中心的な原則である。権力者とそれを翼賛するメディアの嘘は放置され、批判的なメディアや学者の議論が抑圧されるという状態が深刻化すれば、日本は権威主義国家になってしまう。改造内閣の閣僚や党役員がネオナチを自称する団体と記念写真に納まっていることが報じられている現在、外国ではすでにそうした見方が広まっているのかもしれない。

もちろん、今の時代、権力が直接的に言論を弾圧するということは想像できない。しかし、右派的な新聞、雑誌、さらには過激な大衆運動を放置し、その圧力によってメディアや言論人に自主規制をさせることで、一元的な社会を作り出すというシナリオは現実的なものである。戦後70年が近づく今、日本の自由と民主主義がそれほど強固なものではないという現実が見えてきた。ひるまず発言を続けなければならない。


週刊東洋経済9月27日号


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