2004.01.16 Friday 13:14

02年7月:政治と行政のあるべき姿

 いわゆる政官関係のあるべき姿については、本欄でもたびたび論じてきた。最近の防衛庁の不祥事や鈴木宗男代議士をめぐる問題などに関連して、あらためて与党(の政治家)と官僚との関係について検討してみたい。

政治家と官僚との間にあるべき関係は、統制、協働、分離の三つに集約される。統制とは政治が行政を指揮、監督し、民意に基づいて政策の方向付けをすることである。協働とは、政治家と官僚が政策の立案、実現のために協力することである。分離とは、行政における利益配分や利害調整の公正を保つために、そこから党派性を排除することである。国民の共有財産ともいうべき予算や権限を特定の政治家や政党が私物化することのないように政治の圧力を排除することが分離の規範である。入札や公務員採用試験などのルールが分離の規範を具体化するものである。

 これら三つの関係をすべて満足することは実際には難しい。日本ではとりわけ、統制と分離の二つの関係について大きな混乱が存在する。統制においてはまさに政治主導が必要である。政策の立案にせよ、官僚制における失敗や腐敗の追及にせよ、政治家が力を発揮しなければならない。しかし、農水省におけるBSE問題や防衛庁における情報公開請求者に対する思想調査など官僚の犯した犯罪に対する政治による責任追及はほとんどできていない。むしろ、政治は責任を放棄して官僚の失敗や犯罪を隠蔽することに荷担している。

 分離の規範に至っては長年の自民党支配の中でほとんど空文化している。本来行政が中立公平に行うべき仕事に与党の政治家が深く干渉し、影響を及ぼしていることは、鈴木宗男代議士の収賄事件でも明らかになった。鈴木氏の容疑は、国有林盗伐によって処分を受けた会社に対して、処分による不利益を補填するよう林野庁が随意契約で仕事を与えるよう働きかけたというものである。そもそも国有林盗伐などという大胆不敵なことを思いついたのも、この会社には鈴木代議士という後ろ盾があるというおごりがあったからである。政治家の意向はしばしば法をねじ曲げるために使われ、官僚もそのことを怪しまない体質ができている。

誤った政治主導

 鈴木氏はしばしば政治主導という言葉を用いて、官僚に対する威嚇、恫喝などの自らの行動を正当化してきた。しかし、上に述べたように、統治の活動の中には政治が主導すべき部分と政治が関与すべきではない部分とがある。林野庁の事例で言えば、この役所は林道建設という公共事業に傾斜し、そこに大きな利権を抱えている。橋本行革の時に環境庁と併合して国土保全省を作るという構想もあったが、それをつぶしたのが鈴木氏をはじめとする農水族の議員であった。まさに行政改革という本来政治が主導すべきテーマについては官僚の利益を代表して、政治的イニシアティブの発揮を妨げた。逆に、公共事業など公正に行うべき仕事に対して干渉した。まさに鈴木氏をはじめとする自民党族議員が唱えてきた政治主導という言葉は倒錯しているのである。

 鈴木氏の一件に限らず、最近政官関係における政治主導のはき違えが目立っている。たとえば、防衛庁における情報公開をめぐる不祥事に関する内部調査の報告書について、防衛庁側が事前に与党幹事長に説明と了承を求め、自民党の山崎幹事長の指示によって詳細を削って発表するという失態があった。官僚による与党議員への「ご説明」は長年の慣習である。国会で審議される法案や予算について、円滑な成立を図るために原案作成者である官僚が国会の多数を占める与党の議員に事前に説明するということは、国会における政策論議を「出来レース」に変えてしまうという点で好ましくない。ご説明とは、役所の思い通りに法律を作るための戦術である。本来国会の審議が及ばないような役所内部の案件についてさえ、与党議員に根回しをすることが常態化している。これは、与党の政治家に無用の誤解や反発を生まないことだけではなく、何か問題が起こったときに責任逃れのための避雷針を作るという意味もある。つまり、あらかじめ与党の幹部に説明し、了解を得ていたといえば、行政のそうした方針が後で問題を生んだときに官僚が責められずにすむという利点がある。

 また、政治家の側から見れば、大臣など行政府の公的役職に就いていなくても、行政における政策形成に対して口出し、口利きができることは大きな利点がある。与党政治家は官僚に対する公式の指揮、命令権は持っていない。だから官僚に対する圧力は、実質的には命令に等しい力を持っていても、法的にはあくまで要請に過ぎない。防衛庁の情報公開に関して山崎幹事長が言ったように、与党の声を官僚の側が自発的に聞き入れるという形になる。となると、そうした判断の結果に関して、与党の側には責任は生じない。今まで鈴木宗男氏に代表される族議員は、この地位を利用して、汚職の罪を逃れながら影響力を発揮してきたのである。

 このようにして、日本独自の無責任体制が生まれる。官僚は自らの責任を逃れるために事前に与党を巻き込んで意志決定を行う。与党の議員が党利党略の観点から政策形成に口出ししても、その結果について彼らが責任を問われることはない。そして、官僚は政治家を隠れ蓑に保身を図り、政治家は安全地帯から口出しをして政策決定の筋をゆがめていく。

政治と行政との間のルール

 外務省、防衛庁など官僚の不正、腐敗に対して政治は無力であり、省益を守ろうとする官僚は強力である。しかし、鈴木疑惑に示されたように、公共事業や許認可をめぐる利権追求に政治はきわめて強力であり、行政の筋を守ろうとする官僚は弱体である。この転倒を解消し、政治と行政の間に新しい矩を作り出さなければならない。

 まず、政治主導を発揮するのは大臣、副大臣などの公式の役職に就いた政治家だけにすることが必要である。言い換えれば、幹事長であっても与党の政治家が官僚に接触し、圧力をかけることは禁止すべきである。与党議員の中で行政に対して質問、提言をしたい人がいれば、それは国会の委員会で思う存分すればよい。そうなると、大臣等の指導力に対する評価は格段に厳しくなる。部下の不祥事をきちんと処断できないような大臣は失格ということになる。また、この意味での政治主導を確保するために政治任用のポストを増やす必要があるだろう。同時に、与党議員と官僚の接触を禁止すれば、利害調整過程における分離の規範を確立することにつながるはずである。さらに、与党議員がまじめに議論に参加することによって、国会は大いに活性化するに違いない。こうした工夫は、鳥取県、宮城県などすでに地方で先行している。

 官僚に対して圧力をかけることが政治だと思っているような誇りのない政治家はこの際さっさと廃業すべきである。政治家の仕事とは、指揮者として官僚がいやがる問題について方向性と大枠を示すこと、批判者として市民の代わりに官僚の腐敗や失敗を正すことの二つにつきるのである。

2004.01.16 Friday 13:12

02年6月:民権政治の危機

 この連載を始めてはや四年が過ぎた。その間、日本の民権政治はどれだけ進歩したかと考えれば、まことに心もとなく、忸怩たるものがある。政治家を巻き込んだ官僚による予算、権限の私物化を物語る事件が次々と露見し、日本の官僚支配の実態を見せ付けられた。腐敗した病巣が明るみに出たこと自体、改革に向けた第一歩と言えなくはない。しかし、皮肉なことに、民権政治を推し進めると大きな期待を集めた小泉政権の下で、民権政治は押しつぶされ、もはや風前の灯という惨状である。個人情報保護法案など国民のプライバシーやメディアへの規制の持つ危険性については、既に櫻井良子氏や私自身が本誌で述べたとおりである。さらに最近の安全保障をめぐる政府首脳の発言にはただ寒心するばかりである。

 こんなことを言えば、必ず小泉首相は郵便事業の民間開放や特殊法人改革など、この政権こそ民権伸張のための改革を実現しようとしていると反論するであろう。しかし、小泉政権の重視する「民」の理念が、本来の「民権」のほんの一部しか捉えていないところに、大きな問題がある。

民権政治に逆行する小泉政治

 そもそも「民権的」なるものとは一体何だろう。英語で言えば、civic, civilという言葉がこれに相当する。これらの言葉は、市民が自らの責任感に基づいて能動的に自らの社会を形成し、維持するという意味を持つ。だから、civil rightsといえば、市民が持つ基本的権利を意味し、civil lawといえば、市民社会の基本的なルールつまり民法を意味する。Civil servantといえば、市民に奉仕する召使、つまり役人、官僚のことである。また、civilian controlといえば、本来国王の私兵であった軍隊を市民自身が統制することを意味する。日本でシビリアン・コントロールといえば、政治家や事務方の官僚が制服組の自衛官を統制するという意味で理解されてきたが、本来は軍事に関する素人である市民が専門職たる軍人を統制するという意味である。

 小泉首相の考える民とは、もっぱら経済活動における民間を意味している。もちろん、経済的自由を保障することは民権政治の重要な柱である。しかし、経済的自由は民権政治にとっての十分条件ではない。政府の権力、官僚集団というマンパワーは、市民が自由で活力ある社会を作り出すための道具であるという認識が市民の側にも、政府の側にも浸透していなければ、民権政治は成り立たない。織田信長のような独裁者でも楽市楽座政策をとれば経済的自由は伸張する。だから、経済的自由があるから民権政治も存在するとは限らない。

 小泉政権の下では、官僚が依然として国を統治するという驕りを持っており、政治家がそれを統制する気概を持たないことを物語る事件が次々と起こっている。最近発覚した防衛庁における情報公開をめぐる事件もその典型である。情報公開を請求した人に関する個人的情報を収集し、それを他の職員にまで回覧したという作業が、一職員の個人的行動だなどと言われて信じる人はどこにもいない。役所の情報を知りたがる人は不穏分子、反乱分子だと考える化石のような官僚が防衛庁にたくさんいるからこそ、こうしたことが行われていたのであろう。軍の機密に名を借りて自らの失敗や腐敗を隠蔽してきたかつての帝国陸海軍の体質をそのまま自衛隊が引き継いでいる。

 もちろん、こうした自体に危機感を覚えている政治家もいる。過日私は珍しく自民党本部に招かれ、ある委員会で幹部公務員の規律に関する議員立法についての意見を求められた。これは田中真紀子前外相などが中心になって二年前から進めていたもので、重要な情報に関して官僚の大臣に対する報告義務を強化し、それを怠った場合には退職後も在職中の怠慢、非違に関して事後的に譴責できるようにするという趣旨の法案である。これができれば、たとえば東郷前オランダ大使のように問題が発覚したときに辞表を出し、すぐに退職金をもらってどこかに雲隠れするという「やめ得」を防止できる。退職した公務員に対してさらに何らかの義務や不利益を課すことを正当化するには理論上の難点もあるが、政策決定に重大な影響力をもつ高級公務員については特別扱いも必要ではないかと思うと私は述べた。こうした法案の必要性を感じ、議論に参加している政治家は民の代表として官の特権やおごりを正そうという使命感を持っている人々である。しかし、そうした感覚を持っているのは中堅までである。

安全保障をもてあそぶ二世政治家の平和ボケ

 六月一日の朝刊で、政府首脳が「非核三原則を見直すこともありうる」と発言したという記事を読んだとき、私は目を疑った。「世界唯一の被爆国」という国民感情を逆なでしたこともさることながら、日本人の安全に責任を負うべき政府首脳としてあまりにも軽率な発言であることに怒りが収まらない。

 日本は唯一の被爆国だから核武装はしないという公式見解は、日本の外側ではあまり信用されていない。核兵器を持たない国では唯一プルトニウムを大量に貯めこみ、核兵器の開発能力は十分である。今春小沢一郎氏が中国訪問の際に「日本国内で核武装を求める声が高まる可能性」について言及しただけでも、外国のメディアの反応はすばやく、大きかった。そして、インド、パキスタンの間で核戦争にエスカレートするかもしれない地域紛争が続いているこのタイミングで、政府首脳のこの発言である。この政府首脳は、アジアにおける核戦争をめぐる緊張状態をいっそう高め、日本に対する外国の不信、恐怖をいっそう高めたくてこの発言をしたのだろうか。小泉首相や政府首脳が発言を修正しても手遅れである。非核三原則の見直しは核武装の可能性と理解され、日本の潜在的欲求として世界に伝達された。

  くだんの政府首脳にしても、有事法制や自衛隊の海外出動に熱心な安倍晋三官房副長官など自民党の中堅、若手にしてもその大半は苦労知らずの二世議員である。彼らは親の地盤を引き継いで選挙に勝ってきた分、金集め、票集めの苦労が少なく、鈴木宗男氏のような土着政治家と違って、スマート、クリーンである。国の進路について高邁な議論をするのも好きである。しかし、若いころから永田町というミクロコスモスで生きてきた彼らは、世界の現実を知らない。日本が戦争に巻き込まれる状況について、その原因について洞察する力はなく、戦争状態の現実的なイメージを想像する能力もないからこそ、欠陥だらけの有事法制案を提出して、恬として恥じない。また、「非核三原則」発言にしても、政府首脳が本当に安全保障上の選択として核武装を考えるならば、今の段階で記者相手にああいう発言はしないはずである。要するに彼らは国の大方針を転換することで高揚感を味わうという政治ごっこの手合いである。尾崎行雄、斎藤隆夫など民を代表して軍を掣肘しようとする政治家の気迫は、戦前の議会の方が優れていた。国益を顧みず安全保障をもてあそぶ二世政治家こそ、平和ボケの極致である。

2004.01.16 Friday 13:11

02年5月:民主主義のグローバルな危機

 四月二一日に行われたフランス大統領選挙の第一回投票で、社会党のジョスパン首相が三位に終わり、移民排斥を唱える極右政党、国民戦線のルペン候補が二位に進出したことに、筆者は大きな衝撃を受けた。日頃日本の政治を批判するときに、西ヨーロッパの国々をモデルにしてきたのだが、市民革命の元祖であるフランスでも民主主義の土台が危うくなっていたことに愕然とした。決選投票ではシラク氏が圧勝するであろうが、一回目の結果は重い意味を持っている。

 ルペン躍進の前兆は西ヨーロッパ各国に見られた。オーストリアやデンマークでは移民排斥を唱える政党が台頭し、イタリアではファシストの流れをくむ国民同盟が参加する右派連立政権が支配している。中道左派が各国を席巻した時代から明らかに流れが変わっている。その背景には、犯罪の増加、9.11テロ以降非西欧文化に対する拒否感が強まったことからくる反移民感情、そして両者が結合した排外主義(Xenophobia)的気分が存在している。また、経済のグローバル化が進む中で、一国の政府が失業など国民の経済的困窮を救う力を持たないことに対する不満が鬱積していることも見逃せない。

 それにしても、ルペン氏は公然と人種差別を唱えるデマゴーグであり、決して政治の表舞台に立てるとはフランス国内でも思われていなかった。社会、経済が直面する課題に対して現実的な解決策を提示するのではなく、もっぱら敵を攻撃し、民衆の欲求不満につかの間のはけ口を与えるだけの投機的手法こそ、デマゴーグの特徴である。こうしたリーダーが作った政党はある程度の票は獲得しても、その性質においては泡沫政党扱いされてきたのである。それが大統領選挙の決戦に残るのだから、フランスにおける既成政党不信は日本以上といえるかもしれない。二一世紀の民主主義にとって投機的リーダーは大きな脅威である。

 政党政治の腐敗が次々と露呈し、自民党を変えてくれるという期待を集めた小泉政権も目に見える成果をあげないまま崩壊するならば、日本でも同じようなデマゴーグが台頭するかもしれない。かりに自民党が総崩れということになれば、アジア諸国への蔑視、憎悪を公言する石原慎太郎氏が日本のルペンとなるだろう。政治を批評する者が既成政党を罵倒するだけでは、ルペン、石原型の投機的リーダーの台頭に道を開くだけである。

教訓その1  民主主義への脅威の芽は早めに摘み取ろう

 今回のフランスの事態からは、様々な教訓を引き出すことができる。第一は、民主主義に対する脅威は早いうちに摘み取らなければならないという教訓である。大統領選挙の場合、決選投票という仕組みが落とし穴となった。最終的にはジョスパン首相を支持する市民も、一回目の投票ではその他の左翼政党に投票したり、棄権したりした。棄権率は第五共和制が始まって以来最低になった。そのせいで、ジョスパン氏は三位に沈んでしまった。ルペン氏が決戦に残ることになって、フランス各地では人種主義に反対するデモが起こったが、それでは遅すぎる。デモに繰り出した若者がちゃんと投票に行っていればこんなことにはならなかった。つまり、民主主義を守るためには、適切な機会に必要な意思表示をきちんとしておかなければ、少数意見に過ぎないものがするすると勝ち残ってしまうという教訓である。

 これは日本人にとっても他人事ではない。たとえば現在国会で、個人情報保護法案などいわゆるメディア規制三法が審議されようとしている。これらの法律は人権保護の名を借りて、政治家や高級官僚の非行に対するマスメディアの報道を抑止することにつながる危険性、いわば公人醜聞保護法となる可能性を持っている。一度成立してしまったら、遅すぎる。国会で審議している間にできる限りの反対をし、廃案あるいは修正を勝ち取っておかなければ、これからはたとえば鈴木宗男氏の旧悪を暴露する報道だって、個人情報の漏洩として処罰されるかもしれないのだ。民主政治を危うくする動きの芽は小さなうちに摘み取らなければならない。

 政治においては、意思決定こそがもっとも重要な作業である。一度決定したことを後から取り消すということはきわめて困難である。だから意思決定において誤りなきを期することが求められる。選挙は国民自身ができる最も重要な意思決定の機会である。選ぶ側の国民も責任感を持たなければならないことをフランス大統領選挙は教えている。

教訓その2 グローバル資本主義に対する理性的な対応を

 ルペン氏は、低所得の労働者、農民から大きな支持を得ている。本来は左派の支持基盤を構成したこれらの人々は、社会党政権ができても市場競争の猛威を何らコントロールできなかったことに失望し、極右の支持に回った。政治的過激主義や人種主義は、グローバル資本主義に対するもっとも破壊的な反作用ということができる。もちろん、ルペン氏が唱える移民規制や外国人排除を実行したところで、労働者や農民の苦境が改善されるわけはない。経済的に追い詰められた人々がより弱いものに欲求不満のはけ口を求めるだけのことである。もちろん、大きな政府の福祉国家や社会主義に戻るという選択肢はありえない。今求められているのは、グローバルな資本主義の中で人間の尊厳を確保するための政策的努力である。

 まず政府の指導者は、「あなたも努力すればリッチになれる」といった類の競争万能主義的言説を止めるべきである。勝者みな取りのアメリカ的競争社会は、日本にとってもヨーロッパにとっても決してモデルではない。競争原理を導入すればみなが豊かになるというのは幻想に過ぎない。淘汰された者が不満と怨念を持って滞留し、政治的、社会的不安の源泉となるという社会は、勝者にとっても住みやすい社会ではない。もっとも、住民税を逃れるためにしょっちゅう住民票を海外に移せるような金持ちは、さっさと勝者だけの社会に逃げ出すかもしれないが。

 そして、人間の尊厳を確保するための制度的基盤を整備するための政策に高い優先順位を与えるべきである。ここでは詳しく触れないが、年金改革、中小企業のための地域金融システムなど、人間の生活と仕事を支えるための政策については既に具体的な提言もある。政府が責任を放棄して、市場メカニズムにすべてを任せれば人々が幸せになるというのは幻想でしかない。市民が十分に力を発揮するためにも、公共部門による政策が必要なのである。その意味で、現在のような小泉構造改革は競争原理や市場メカニズムに対する怨念を増やすばかりで、結局日本社会の安定や民主主義を脅かすことにつながるのではなかろうか。

 グローバル資本主義の中で従来のような安定や豊かさを享受することが難しいことは誰しも感じていることだろう。こういう時代だからこそ、政治において正義や公平が確保されているという感覚が重要なのである。口利き政治、ピンはね政治の解明を中途半端で終わらせてはならない。

2004.01.16 Friday 13:08

02年4月:自民党の危機をきっかけに政治の中身を問い直そう

 このところの政治には、既視感が付きまとう。鈴木宗男、加藤紘一両代議士の疑惑で政界が大揺れという現状は、佐川急便疑惑で自民党が大混乱した十年前を思い出す。あれからもう十年経った。しかし、政治腐敗の構造はまさに十年一日である。私は一九九三年に『政治改革』という本を著し、その中で政治腐敗と行政腐敗の密接な関係について力説した。選挙制度や政治資金の仕組みを変えれば政治腐敗がなくなるわけではない。公共事業の配分や許認可に関する官僚集権体制と裁量行政を打破しなければ、日本の政治は清新な活力を持つことはないというのがその本のメッセージであった。十年経った今、この主張に何の修正も必要ない。鈴木宗男という利権モンスターは、この十年の間で公共事業や官庁の調達の過程に食い込んで、金脈を築いたのである。疑惑の当事者である政治家の責任を追及することはもちろん重要であるが、公共事業をどうするのか、本気で考えなければ第二、第三の鈴木宗男が現れることは確実である。

 改革を標榜した小泉政権は、疑惑の当事者に対するけじめをつけることについて指導力を発揮できず、人気は低落傾向である。この点では九七年秋以降、佐藤孝行氏の入閣を機に失速した橋本龍太郎政権を思い出させる。橋本首相の秘書官を勤めた江田憲司氏によれば、「灰色高官」佐藤孝行氏を閣僚に任命したことについて、橋本首相が「不明を恥じ」たことがこの政権の衰弱の始まりだった。首相が頭を下げた瞬間、自民党の族議員たちは公然と首相に対する抵抗を始めたそうである。小泉首相による田中真紀子外相の更迭劇を見ると、江田氏ならずともこの時のことを思い出す。

 私も前回の本欄で、小泉首相に自民党の古い体質と厳しく対決し、敢えて解散によって腐敗した部分を振り落とすことを提言した。しかし、首相はこの点についていたって楽観的である。過日、小泉首相と「首相公選制懇談会」のメンバーとの会食があり、私は首相に危機感を持つよう訴えた。しかし、首相は「今与党の体制はもっとも安定している。これからどんどん改革を実現する」と述べ、意に介さなかった。

 鈴木宗男氏は橋本派の幹部であり、若手政治家の金の面倒を見てきた。加藤紘一氏は長年有力な総理候補と言われてきた。その二人の政治家が資金疑惑で離党を余儀なくされたということは、自民党自体の構造が腐っており、まず自民党から構造改革が必要であることを物語る。今の日本政治において、自民党内に安定した基盤を作るということは、民意から乖離するということと同じである。小泉政権の前途を悲観せざるを得ない。

自民党改革のモデル

 自民党が資金疑惑をめぐって騒然としているさなか、自民党の国家戦略本部国家ビジョン策定委員会が党改革の提言を小泉総裁に提出した。その骨子は、総理の人事権の強化と内閣の長期継続、政府提出法案に関する与党の事前審査の廃止、総選挙の際の政権構想(マニフェスト)の作成などである。この提言は、イギリスモデルに沿って自民党を作り変えようとするものである。自民党の若手が党の現状に危機感を持ち、改革を真剣に検討したことはまず歓迎したい。また、今回の提言の基礎となっているイギリスモデルは、この数年の内閣制度改革や国会改革の目指したものでもあり、今までの改革との整合性もある。しかし、この提言に自民党が猛反発していることに示されるように、実現は容易ではない。このような改革を行えば、自民党は自民党でなくなることを族議員は本能的に察知しているに違いない。

 イギリスモデルが実現するためにはいくつかの条件がある。何よりも重要なことは、自民党が政策の基軸を明確に立てることである。今までの自民党の唱えた政策はヨーロッパ的な政党政治においては、政策とは言わない。単なる願望であり、自民党の政策集は英語では”wish list”と呼ぶ。たとえば、選挙のときに政治家が叫ぶ「景気回復」は目標でしかない。どのような手段によって景気を回復させるのか、またそのような手段を採用したときにはどのようなコストを払うのかという点まで議論しなければ、政策は作れない。そうなると、小泉首相のように「構造改革なくして景気回復なし」という路線をとるのか、亀井元政調会長のように「まず景気回復」という路線をとるのか、党としてはっきりと方針を決め、選挙の際に国民に提示しなければならない。今まで自民党が自慢してきた「幅の広い党」というのは、要するに大事な問題について党としてはっきりした意思決定ができないというのと同じである。自民党が統治の主体となるためには、願望を羅列するのではなく、目標と手段をともに考えるという意味での政策が不可欠である。

 もう一つの大きな難問は、党内における政治家の評価と登用の仕組みを作ることである。派閥均衡人事をやめ、与党の事前審査をやめ、内閣を長期継続させるならば、必然的に閣僚として表舞台で活躍する政治家と、国会で政府提出法案を成立させるために存在するその他大勢という分化が生じる。今までの派閥均衡や当選回数による閣僚人事と、一年一回の内閣改造は、自民党内を平和に保つための生活の知恵であった。名誉欲、権力欲では人後に落ちない代議士たちが不満をもたないようにするためには、今までの方法は合理的であった。しかし、党にとっての合理性は国にとっての非合理性であることがはっきりした。与党の議員であっても、行政府のポストにつくのではなく、国会議員として法案審議を行うことを天職と考えるような政治家が生まれなければ、今回の国家戦略本部の提言も絵に描いた餅である。

政治家の仕事とは何か、考え直そう

 現状のままで政治家と官僚の接触を制限すれば、族議員たちは飯の食い上げだと反発する。しかし、官僚に取り入って特定の地域や団体のために金や恩恵を引き出すことを政治と考えるという発想自体に、今こそ決別すべき時である。もちろん、地域振興や弱者救済のために政府が予算や権限を使うことはこれからも必要である。しかし、それは国会議員が躍起になるテーマではない。人々に近い地方政府に任せておけばよいのである。世界が大きく動き、外務省も農水省も金融庁も官僚が問題に取り組む意思を阻喪している時に、政策の方向付けを示すのは政治家しかいないのだ。

 自民党国家戦略本部の議論に欠けているのは、国政と地方政治の役割分担である。中央政府に利権のネタがある限り、族議員は不滅である。地域の細かい利益配分と中央省庁を切り離すことで、政治家に国の舵取りを行う責任感を持たせ、同時に官僚にもう一度マクロな問題に取り組む意欲を回復させることが、国家戦略の中心となるべきである。

 最後にこの問題は国民にもはねかえる。国民の側が、役所とのパイプを持つ政治家を使える政治家として支持してきたからこそ族議員ははびこってきた。これからは、「中央とのパイプ」を誇る政治家を疑うことが求められている。

2004.01.16 Friday 13:06

02年3月:小泉政権最後のチャンス

 田中真紀子前外相と鈴木宗男代議士とのバトルを契機に、小泉政権の支持率は急降下している。『朝日新聞』三月三日付の世論調査では、支持率四四%、不支持率四〇%と拮抗している。田中前外相の「小泉首相自身が抵抗勢力」という発言と、鈴木氏の「旧悪」暴露とが重なって、小泉政権は剣が峰に立たされることとなった。

小泉首相が抵抗勢力になったのかどうか、小泉首相自身が答えを出さなければならない。その答えは、鈴木宗男代議士に体現される自民党の政治手法を小泉首相自身が否定し、破壊できるかどうかで判明する。これは決して鈴木氏個人の不祥事ではない。鈴木氏が体現している自民党政治の本質が問われているのである。小泉首相の唱える構造改革が本物の改革であるためには、鈴木的なるものと正面から戦うことが必要なのである。

 鈴木政治の撲滅の方法について考える前に、なぜ鈴木氏が大きな力を持つようになったのかを明らかにする必要がある。鈴木宗男の権力は、中央集権的官僚支配の産物である。この命題に対しては、事のよしあしは別として鈴木氏は日ごろ「政治主導」を唱え、官僚を叱ったり、脅したりして指導力を発揮しているではないかという反論もあるかもしれない。しかし、行儀の悪い政治家をかかえこんで威張らせているところに日本の官僚支配の巧みさがある。

 地元の人々にとっては、鈴木宗男は恩人である。鈴木氏自身がいつも言うように、都会と田舎の大きな経済格差が存在する限り、恵まれない地域に政策の恩恵を運ぶことが政治家の使命というわけである。この構図は国内の公共事業にもODAにも当てはまる。鈴木氏が国会議員であることを恥ずかしいと考える日本人は多いだろうが、彼のおかげで豊かになれたと思っている人もいる。もちろん鈴木氏はボランティアでサンタクロースの役を引き受けているわけではない。恩恵の見返りに、ちゃんと手数料は取っている。ただ、彼の場合、それを他の政治家よりも大規模に体系化したところに特徴がある。

 また、官僚にとっても鈴木宗男は使いでのある政治家である。そもそも官僚にとっては有害な政治主導と無害な政治主導がある。国民にとっては、前者は有益な政治主導で、後者は有害なものと言い換えてもよい。官僚の腐敗を暴き、既得権を奪うような改革を推進する政治主導は、官僚にとっては有害である。田中前外相が進めようとしたのは、まさにこの意味での政治主導である。このタイプの政治主導には官僚は全力で抵抗する。これに対して、省益を守ってくれる族議員の政治主導は無害である。自分たちの腐敗や既得権をかばってくれるのなら、多少怒鳴られたり、利権の配分をめぐって横車を押されたりしても安いものである。

構造改革と鈴木政治

 ここで述べた鈴木政治は、まさに田中角栄以来の自民党政治そのもので、利権の舞台がアフリカや北方領土まで広がった点を除けば、新しいものは何もない。しかし、世の中の現実の方は大きく変化している。地域に恩恵をもたらすはずの政策が、予算の無駄遣いと地域経済の脆弱化という結果をもたらしているのである。たとえば、北海道では熊や狐しか通らない道路を作ってけしからんという議論がある。しかし、地元の人々も、工事を受注する建設業者を除けば、そんな非効率な公共事業を喜んでいるわけではないのである。市町村の関係者に話を聞けば、国土交通省や農水省の官僚を怒らせないために仕方なく付き合っている事業も多い。地元では福祉や廃棄物処理に金を使いたくてもそんなものには補助金はつかず、無用の長物のような道路や漁港が作られるのである。官需に依存する建設業だけが生き延び、地域住民の自立につながる新たな産業や生活基盤はできないままである。ODAでも同じ問題がある。援助を受ける側の住民が望まない巨大なダムのために日本の資金が使われ、喜ぶのは事業を受注するゼネコンとそこから政治献金をもらう政治家だけという図式である。

 鈴木氏は政府の援助を必要としている過疎地や途上国にとって親切な恩人である。しかし、彼が親切を発揮すればするほど、地域経済の従属構造は深まり、税金の無駄遣いは増える。構造改革の目的を、人や資本をより効率的なセクターに移すこと、そして官の恩恵にすがらなくても自立していけるような経済の仕組みを作ることと理解するならば、その意味での構造改革に立ちふさがり、官僚と一緒になって妨害しているのが鈴木宗男たち族議員である。今まさに、鈴木的政治を打破して改革を進めるのか、鈴木的政治を延命させて日本沈没の道をたどるのかの分かれ目である。

鈴木的政治の葬り方

  族議員の横槍を防ぐために、官僚と政治家の接触についてルールを作ろうとか、両者のやり取りを記録して公開しようといった議論がある。私もその種のルール化の必要性は否定しない。しかし、集権的官僚支配の根本を変えない限り、官僚は折に触れ鈴木的な政治家を利用して既得権維持を図るに違いない。鈴木氏が北海道や沖縄などの地方と中央省庁との間のパイプ役として暗躍できたのは、中央省庁に行かなければ地域の政策が決められないという構図があったからである。だとすれば、中央の財源をすべて地方に下ろせば、少なくとも国政レベルで鈴木的な政治家が跋扈することはなくなるはずだ。

 地方政治でますます鈴木的な政治がはびこったらどうするか。それは住民の決意次第である。腐敗したボスがのさばるならば、リコールすればよい。そして、新たな改革派のリーダーを立てて知事選挙や市長選挙を戦えばよい。もちろん、住民には鈴木的政治にしがみついて没落する自由もある。北海道民は肩身の狭い思いをしているのだが、今の国政選挙の仕組みにおいては残念ながら鈴木氏を葬ることはできない。住民の手の届くところで政策決定を行えるようになれば、それも可能となる。

 日本においては、陳情と利権が表裏一体である。中央省庁に金と権力が集中しているからこそ、陳情が必要となる。陳情の口をきいてくれる政治家が利権を握りこむことになる。族議員の居場所をなくすには、根本的な地方分権こそが鍵である。このような改革は政治腐敗を一掃するだけでなく、まさに政治経済の構造を改革することに直結するのである。

 小泉政権の行き詰まりとともに、巷間解散の可能性も取りざたされている。私も改革を推進するには解散しかないと思う。ただし条件がある。小泉首相が自らの改革について具体的なプログラムを明示して解散を行う。そして、自民党の公認を与えるかどうか、それぞれの政治家の今までの行動に照らして首相が判断し、鈴木氏など明らかに改革に逆行する政治家には公認を与えない。解散と公認権をテコに自民党をぶっ壊さなければ、改革はできないのである。

 経済の混迷、小泉政治に対する幻滅など、日本にとって残り時間は少なくなっている。小泉首相にとって、自ら主導権を取る形で解散総選挙を断行することが、現在の苦境を打開する唯一の方法である。

2004.01.16 Friday 13:02

02年2月:田中外相更迭劇に現れた小泉首相の不見識

アフガン復興会議へのNGO参加問題に端を発した外務省の混乱について、田中外相、野上事務次官、鈴木衆議院議運委員長の更迭という両成敗の形で決着した。一連の騒動は日本の政治の欠陥と小泉首相の不見識を映し出したといえよう。この問題を、NGOと政府の関係、政治家の行政に対する干渉、小泉首相のリーダーシップの三つの側面に分けて考えてみたい。

 まず、NGOと政府の関係から考えてみたい。事の発端は、日本の政府は当てにならないと発言したNGOの代表者を、日本の外務省がアフガン復興会議から排除しようとしたことであった。それは鈴木宗男代議士の強い指示によるとされた。NPO法が定着し、日本においても各種の民間組織が公共政策の実施を担うようになった。とりわけ、途上国援助や難民救援を中心とした国際貢献におけるNGOの役割はきわめて大きなものとなっている。政府もこうしたNGOの重要性を無視できなくなっている。しかし、日本の官僚や政治家にとってのNGOは対等なパートナーというよりも、汚れ仕事を進んでしてくれる便利な存在でしかないのであろう。政府批判をするようなけしからんNGOは国際会議から排除されても当然だという考えが官僚や政治家にあったというのは驚きである。

NGO代表者の記者会見によれば、鈴木代議士はアフガンNGO関係者を日本政府の資金で招聘することに反対し、「国民の税金を集めているのはおれなんだ。税金を使うなら政治を無視してできると思うな」、「アフガン会議ではNGOには一銭も金をやらんからな」とNGOを恫喝したとのことである。このような下品、下劣な発想をする政治家が与党最大派閥の有力者であり、外務省に隠然たる影響力を持つということは、まさに国辱である。

政府の予算は国民の税金であり、鈴木代議士の財産ではない。それをあたかも自分の金のように考え、その使い道を捻じ曲げることこそ政治力の発揮だと考えているところに鈴木代議士の本質がある。

 私の批判に対して、鈴木代議士は一方当事者の発言を鵜呑みにして批判することはおかしいと反論するであろう。しかし、私にはNGOの主張の方を信じる理由がある。税金を自分の金のように考え、従順に尻尾を振るものには気前よくそれを分け与え、自分に逆らうものは脅す、嫌がらせをするというのはまさに鈴木氏の政治手法である。それは北海道の常識といってよい。

 政府を批判するNGOがあってもよいではないか。このところ、日本の官僚は批判されて当然な失敗や腐敗を繰り返してきた。むしろ、外務省はつねにNGOの批判にさらされるほうが緊張感を持ってよい仕事ができるはずである。国民の税金を私物化し、言うことを聞く子分だけにそれを分けてやるという発想を政治家や官僚から一掃しなければならない。

外務省はなぜ鈴木代議士の言うことを聞くのか

 次に、政治家による行政への干渉について考えてみよう。このところ、代議士秘書の脱税事件を契機に、あっせん政治、口きき政治の弊害が改めてクローズアップされている。政治家やその代理にとしての秘書が公共事業の発注など利益分配の過程に干渉し、特定企業を利するよう働きかけをして、収入をもらうというあっせん政治の仕組みは、日本政治の隅々にまで浸透している。今回の鈴木代議士によるNGO排除はあっせん政治のコインの裏側である。口きき、干渉は手下に利益をもたらすこともあれば、政敵に嫌がらせをすることもある。いずれにしても、行政機関における政策決定に関して何の権限もない政治家が干渉し、決定を自分の望む方向に捻じ曲げるところにあっせん政治の本質がある。政治家の私益や私情で政策がゆがめられることの弊害は計り知れない。

政策決定における政治家や官僚の責任を明確にするために、あらためて政治主導の中身を考え直す必要がある。与党の政治家が官僚を怒鳴ったり脅したりして横車を押すことは、政治主導ではない。与党の指導的政治家が内閣の公職について、国民に示した政策を実現するために官僚を使いこなすことこそ、政治主導である。仮にNGOに関する政策に問題があると与党議員が思うのなら、まず大臣、副大臣、政務官など外務省を指揮・監督する立場にある政治家に対して議論をしかけ、それでも不満ならば国会のしかるべき委員会において質問するのがとるべき手段である。今回の決定においては、外務省の方針を覆し、NGOの参加を認めさせた田中外相(当時)の行動こそ、正しい意味での政治主導である。

 官僚はあくまで大臣の命令のもとで行動するはずである。法的には何の権限もない一政治家に言われて方針を変えることをなぜ不思議に思わないのであろうか。誇り高い外務官僚が鈴木宗男氏の干渉を受け入れるのは、官僚の省益追求行動という要素を入れないと理解できない。うるさ型の政治家を手なずけておけば、官僚にとってよいことがあるからこそ、鈴木氏は跳梁跋扈するのである。鈴木氏は時に官僚を罵倒する「難しい人」である。しかし、外に対しては外務官僚の省益を擁護する頼もしい味方である。間違っても機密費疑惑の解明などという青臭い正論を吐くことはない。むしろ、政治主導を掲げた田中外相を牽制し、古い官僚主義の体制を守ろうとしてくれた。官僚にとって最も守りたい体制を守ってくれるのだから、横車を押されるくらい安いものである。

この際、政策決定における責任の明確化と、腐敗防止のために政治家と官僚の接触についてイギリスのような明確なルールを日本でも作るべきである。即ち、官僚に対して政策問題で意見や要求を伝えるのは大臣等官僚を指揮・監督する政治家だけとし、与野党を問わず一般の政治家が官僚と非公式に接触することを禁止すべきである。

 小泉首相の見識を問う 今回の田中外相更迭は、高い支持率を誇ってきた小泉政権にとって、「蟻の一穴」になるかもしれない。小泉首相自身が繰り返してきた改革の精神を、外相更迭によってみずから否定したことになるからである。まず何より、今回の事件が喧嘩両成敗ではすまされない重要性を持っていたことを首相は認識していない。官僚を指揮するのは誰か、官僚は誰に服従すべきかという内閣にとってきわめて重大な問題が問われているのである。

 鈴木氏による横車を非難した側も更迭したということは、この横車を事実上首相が認めたに等しい。この事実は、今後の改革の展開に大きな影響を与えることになるだろう。外務省にとっての鈴木氏のような政治家は、他の省庁にも必ず存在する。これから官僚の既得権を奪う改革の戦いが本格化すれば、首相−大臣という正規の指揮命令系統を無視して、様々な政治家が官僚に対して働きかけ、また官僚は既得権を守るためにそのような政治家を利用しようとするだろう。それをいかに封じ込めるかは、改革の成否を左右する。今回の事件を検証し、政治家による理不尽な圧力をいかにはね返すか、首相自身が考えるべきである。

2004.01.16 Friday 12:58

02年1月:改革と政治のリーダーシップ

二〇〇一年末の予算編成も終わり、小泉旋風が永田町に及ぼした変化も見えてきた。ばかばかしかった復活折衝もなくなり、予算獲得の陳情政治も様変わりしたようである。医療費の自己負担増など、構造改革の中でも国民負担の増加のほうが先に具体化しているにもかかわらず、年末にかけて小泉政権の支持率が上昇している。

これは、特殊法人改革や予算編成過程において小泉首相が自民党の古い族議員と戦い、新たなシステムを作り出そうとしているという期待に基づくものであろう。しかし、戦う気合や姿勢のかっこよさで人気を集められるのもそれほど長くは続かないのではなかろうか。小泉政権が二年目に入る今年は、政策の中身についても、政治の仕組みについても、小泉ビジョンとは何かを具体化させる必要がある。

構造改革予算のまやかし

政策の中身から考えると、小泉流構造改革が今年行き詰まることは必至である。これからの政治は、利益の配分よりも、損失をいかにして分かち合うかという課題に移行することを、国民は漠然と理解している。それにしても、損失の分配が不公平であれば、国民は納得しない。国民は、自分たちが払いつつあるコストが本当の構造改革につながらないことを悟ったとき、小泉政権を見放すに違いない。予算編成に垣間見えた小泉改革においては、負担の増加がそれ自体で目的のように位置付けられていたような感じがした。

構造改革の第一歩は、民間における不良債権、政府における様々な借金の全体像を明らかにすることである。そして、そうした負の遺産を処理するために誰がどのようにして責任を負うべきかを決めていくことが、構造改革の基本的前提となる。現段階の小泉改革は、高速道路や医療保険について、それらの制度を支えつづけることが困難なことを国民に知らしめ、制度の見直しに向けて国民の覚悟を喚起しただけである。国民の負担増が制度の持続に本当に役立つのか、納得のいく説明は聞かれなかった。

それらの問題はほんの序の口である。にもかかわらず、予算編成では国債発行三十兆円の公約を守るために、たとえば地方交付税特別会計における借入金の増加のように、いわゆる隠れ借金の手法が用いられ、負の遺産の全体像は決して明らかにされてはいない。また、民間の不良債権問題についても、政府の危機感不足は明白である。これらの面に現れているように、小泉構造改革は実に中途半端である。

負の遺産の全体像が明らかになれば、国民は驚きと絶望で打ちひしがれるかもしれない。しかし、それを恐れて現実との直面を避けていれば、いつまでたっても改革は進まない。公共部門における巨大な負の遺産を処理していくためには、とりあえず様々な負債を一つにまとめ、特殊法人等国の信用によって行った事業に関する債務も国の債務として確定する必要があるだろう。法律上は特殊法人に出資、融資した民間企業にもリスク負担を求めることは可能だろうが、それによって銀行の経営不安が起こればそこで公的資金が必要となるので、同じことである。また、民間の不良債権についても、結局公的資金をどれだけ投入すれば片がつくのか、全体像を確定する必要がある。

このように、構造改革の第一歩としての負の遺産処理には、膨大な財政資金が必要となる。国債発行を抑えるというしばりをかけるから、負の遺産を押入れにしまいこむような対応が予算編成でも繰り返されたのである。

もちろん、一時的に国の債務として確定した負の遺産について、「一億総懺悔」ふうに国民全体でうやむやのうちに負担しようと主張しているわけではない。負の遺産を作り出した責任は人によって違う。消費税率の引き上げなどの安易な大衆課税で債務の返済を行うことには問題がある。さりとて、一般庶民には関係ないというわけには行かない。無能な指導者を放置していたことの代償として、最後には国民自身で負の遺産を処理することが必要となる。

前回の本欄で、小泉構造改革について「地獄の釜のふた」を開けたと批評したが、それはやや過大評価だったようである。日本の危機の全体像を見せることなく、五月雨式に金融危機や大型倒産が続くようであれば、小泉改革に対する国民の期待は一遍にしぼむであろう。当面様々な痛みが伴うとしても、どこまでふんばれば前向きの展開になるのか、道筋を見せなければ国民の忍耐にも限度がある。

自民党的政治手法はいつまで続くのか

それにしても、改革をめぐる首相と与党のやりとりを見ていると、小泉首相はどこまで本気で自民党や日本の政治を変えようとしているのか、その真意がわからなくなる。小泉首相と自民党内の抵抗勢力が、漫才におけるボケと突っ込みのように役割を分担して、全体として面白い政治ショーを演出していると見ることもできる。政策面でも人材面でも行き詰まった自民党にとって、この「改革漫才」こそ権力を維持するためのもっとも安易な方策である。抵抗勢力といっても、与党の座、議員の地位こそが最大の既得権であり、これを手放すリスクを犯してまで、政策面での反対を貫くということはありえない。そう考えると、族議員が予算編成のときにおとなしかったことも理解できる。

書いているこちらも、いつもながらのボヤキ漫才で恐縮だが、未曾有の経済危機を前にして、政府与党が改革漫才をしている場合ではない。その場限りのまやかしはもはや通用しないことを肝に銘じて、どのような基軸によって政策の展開を図るのか、政治家たる者は自己の覚悟を披瀝すべきである。抵抗勢力がハードランディング型構造改革に反対ならば、小泉首相をひきずりおろすくらいの気迫で政策転換を迫るべきである。また、小泉首相も今回の特殊法人改革で満足することなく、より厳しい改革の具体像を示し、与党議員に踏絵を迫るべきである。

先日、首相公選制を考える懇談会において、私は現在の制度の下で首相のリーダーシップを強化し、国民とのきずなを強化するための改革案について報告した。小泉首相は、私の提案について賛意を示しながら、自民党は私の主張する方向に変わり得ないと述べ、だから根本的に制度を変える必要があると主張した。しかし、国民自身がリーダーと国の針路を選択し、多数党が結束してそれを実現するという本来の政党政治を日本で実現する機会はあと一回だけあると反論した。それは、小泉首相の手で解散総選挙を断行することである。昨年の参議院選挙で自民党は構造改革を訴えたが、自民党の代議士にとってそれは他人事でしかない。自分も構造改革を国民に約束したとは思っていない。その虚偽を打破するためには、総選挙を行い、小泉ビジョンによって自民党を縛り、この公約を訴えて当選した者はすべて小泉首相のリーダーシップに従うという政権運営を行えば、改革漫才が出てくる幕はないはずである。

小泉首相には、今年は選挙のない年だなどと言わず、国難を乗り切るために政治家と国民の覚悟を問う選挙を実行してほしい。

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