2012.08.07 Tuesday 18:07

いくつかの民主主義

 国政を見ていると、民主党の崩壊過程が進んでいるように映る。民主党の周辺には生き残りを図って右往左往する政治家が目立つ。自民党の側では、民主党の自滅で権力が転がり込んでくるのを待つ様子が窺える。どちらにしても、今国会がしなければならない務めを果たしていない。

ほんの一例をあげれば、福島第一原発の事故に関する各種の調査委員会の報告が出そろったのだから、国会はそれを受けて再発防止策について徹底的に議論すべきである。しかし、黒川清国会事故調査委員会委員長の参考人招致さえ、実現しない。長年の原子力政策のゆがみをつつかれたくない自民党と、事故への対応について追及されたくない民主党の「協力」がもたらす不作為とメディアは評している。二大政党は政治不信を自ら招いているようなものである。

 そして、首相官邸では野田佳彦首相が「決められない政治」からの脱却をモットーに、消費税率引き上げや原発再稼働という懸案について、断を下している。いちいち反対論を聞いていたら政治は前に進まないというのが、首相の言い分であろう。判断の当否は後世の評価に任せると言いたいのかもしれない。

 他方で、市民の政治に対する抗議のエネルギーは、かつてないほど高まっている。私も七月二九日の原発再稼働反対の国会包囲デモに参加し、人の多さに驚いた。暑さをものともせず、まさに、老若男女、様々な人々が押し寄せていた。彼らは、個人的利害を離れ、後世のために声を上げていたのである。

 国会も、官邸も、そしてその近辺の路上で起こっていることも、それぞれ民主主義の一つの姿である。職業政治家が次の選挙の結果に最大の関心を払うことは、民主政治の宿命である。民主的手続きによって選ばれた指導者が、その時々の民意に逆らって決定を下すことも民主政治の中では許容される。そして、政治家が自分たちの声を無視していると思うなら、市民自らが街頭に出て声を出すことは、活発な民主政治の姿である。

 要するに、これが民主主義ですというすっきりした標本は存在しないのである。そして、民主主義は魔法の杖ではなく、私たちが常に試行錯誤しながら、追求するものである。今までの民主主義は、政府から恩恵を得るための仕組みだったが、今は国民一人一人が国の命運を議論する仕組みへと変容している。

 膠着状態に陥っている政治家を別として、首相も市民も、後世を意識して行動していることは興味深い。両者の食い違いは簡単には縮まらないだろうが、少なくとも首相は市民の声を聞き、自らの判断について誠実に説明しなければならない。結論は違っても、指導者は誠実に考え、責任を果たしているという敬意を勝ち取らなければ、指導者は後世の評価に耐えることはできない。この点で、野田首相は十分な努力を払っているとは思えない。

 三・一一の衝撃の大きさと、国会や政党の機能不全とのあまりの落差に、人々が自分たちで何とかしなければならないという責任感に目覚めたことで、日本の民主政治は新たな段階に進んでいるように思える。首相官邸周辺のデモについて、党派や団体ではなく、普通の市民が大勢参加しているという報道が目につく。これはおかしな話である。今までの日本の政治は、普通の市民が街頭で声を上げることを奇異と思っていた点で、普通の民主主義ではなかったのである。

 主権者が街頭で声を上げることは、権力への抵抗の一種である。民主主義の土台に抵抗権があることは、四百年前から西欧の常識である。普通の市民がデモに参加することが当たり前となり、メディアにとってのニュースバリューがなくなった時、日本の民主政治は成熟することになる。原発事故という高い代償を払い、日本人はようやく民主政治を陶冶しているように思える。

熊本日日新聞8月5日


2012.07.10 Tuesday 17:10

民主党という実験の終わり

  消費増税法案の衆議院通過の過程で民主党の分裂が露わになった。もはや、民主党という主体が日本の政治を担うことは困難となった。今、我々は政治に対して何を求めるべきか、考えておきたい。

 そもそも、民主党政権を追及する議論には矛盾が目立つ。決められない政治への非難と、政権交代の夢を捨てただのマニフェストを裏切っただのという非難は、絶対に両立不能である。ねじれ国会で物事を決めようとすれば野党と妥協せざるを得ない。だから民主党の旗はある程度下すしかない。純粋に夢を追いかければ、決定不能の政治が長引くだけである。民主党政権を批判することは簡単である。批判する側は、何を求めて批判するのか自覚すべきである。

 民主党の事実上の分裂は、2つのアディクション(中毒症状)の衝突の結果である。先月本欄に書いたように、野田首相は決定アディクションである。何かを決めたいという欲求に突き動かされ、消費税率引き上げなど、国論を二分する争点をわざわざ拾い上げた。国民世論や党内反主流派に反対の声が大きければ大きいほど、決める快感は大きい。そして、だれもが嫌がった増税を決めたことに自己満足している。他方、小沢元代表は闘争アディクションである。権力闘争のためには、マニフェストも道具である。

 小沢グループの離反は、民主党という実験の終わりを意味する。時間軸を広げるならば、90年代初頭以来の政治制度改革による政党再編という企図が失敗したことを意味する。小選挙区制度によって政党の集約を図り、ともかく民主党という政党が自民党に拮抗する政党に成長した。もちろんこの政党は非自民の政治家が小選挙区で生き残るための方便であった。

そのことは百も承知だったが、私はこの政党に、日本に欠けていた社会民主主義的政策の担い手という役割を期待し、様々な提言を試みてきた。そして、その最大の理解者が当時の小沢一郎代表であった。そこから「生活第一」路線が始まり、政権交代の旗印にもなった。しかし、生活第一というスローガンもまた、方便であった。理念のレベルで生活第一を共有できていれば、つまり、目指すべき日本社会のビジョンが民主党に共有されていれば、税制は所詮財源調達の手段となるわけで、いくらでも妥協可能なテーマとなる。しかし、消費税率を上げないことそれ自体が国民との約束になってしまい、約束を履行したかしないかという二者択一の議論にみんな陥ってしまった。

野田という政治家は、本来の民主党の理念とは真逆の人である。原発再稼働、オスプレイ配備など彼が意気込んで決断する中身は、自民党でさえ容易に決められないようなテーマばかりである。民主党が拡張する過程で、自民党に属せない保守政治家が入り込み、それが今の中堅を形成しているところに、民主党の不幸がある。野田に首相を辞めてもらいたいのはやまやまだが、その次に起こるのは、自民党の復権か、怪しげな第3極の台頭であろう。

今、私が民主党に望むのは、解散の前に代表選挙を行い、この3年の総括をもとに民主党の理念と政策の基軸を徹底的に議論し、旗を立て直すことである。消費増税は仕方ないとしても、自民党が金持ち優遇の小さな政府路線を明らかにしている以上、民主党がこれに対抗する政策軸を立てなければ、次の選挙で国民は選びようがなくなる。三党合意で先送りした社会保障本体の設計について、民主党は自民党との対決構図を作らなければならない。それができなければ、二大政党制は翼賛政治に転落する。

 民主党対自民党という二大政党制を持続していくことが難しいのならば、さっさと選挙制度改革を行い、多党制を目指した再編が望ましいという結論になる。民主党の政治家は早急に答えを出さなければならない。

熊本日日新聞7月1日

2012.06.04 Monday 17:14

問われる野田首相の政治決断

  五月三一日の各紙の一面には、野田佳彦首相が大飯原発の再稼動を決断し、消費増税法案の通常国会会期中の採決を目指すという見出しが並んでいた。いずれもこれからの日本の行方を左右する重大問題である。野田首相の心中を推し量るに、今までの政治指導者が先送りしたり、決め切れなかったりした問題について、今この時に自分がすべて決着をつけてやる、その結果政局に混乱が起きても本望だという高揚感が溢れているのだろう。

 国の命運に関する決断は政治指導者にしかできない。しかし、決断は危険な誘惑でもある。指導者が自らの存在に陶酔し、高揚感に淫すれば、決断は的外れの自滅につながることもある。的確な決断を下すためには、政治の目的と、それを達成するための手段を見極めることが必要である。

 今の野田首相を見ていると、国難に関して決定を下すこと、それ自体に興奮しているように思えてならない。本来手段に過ぎないものを大目標のように位置づけ、手段を実現することで国難を打開できると錯覚しているように見えるのである。

 原発はエネルギー供給の手段であり、消費税率引き上げは歳入確保の手段に過ぎない。それらの手段は、大きな目的を達成するためにどのように役立ち、どのような弊害をともなうかを適切に見分けることが決定の大前提である。それぞれ、今後十年単位の時間軸の中で、エネルギー政策や財政の枠組みを定礎し、その中に手段を位置づけてこそ、有意義な決断となる。

 先日、菅直人前首相が国会の原発事故調査委員会に招致され、事故への対応について追及された。菅氏は、国を滅ぼした戦前、戦中の軍部になぞらえて、原子力ムラの犯罪性を非難した。菅内閣の事故への対応が的確だったと肯定するつもりはない。それにしても、問題の近因と根本的原因を識別し、大本の問題に切り込まなければ、事故調査の意味はない。権力中枢にあって、原子力政策を進めた官民学の当事者の無能、無責任ぶりをつぶさに見た菅氏の発言は、決して責任転嫁ではないと思う。加えて、原子力大綱の策定会議において、核燃料サイクルに関する情報が事前に推進派の委員だけの内密な会合で配布され、議論が先取りされていたことも露見した。

 本来、民主党は政官業の癒着構造を解体し、国民のコントロールのもとに政策決定を行うことを主張してきたはずである。しかし、原発再稼動を急ぐ野田政権の指導者たちからは、こうした問題に対する怒りがまったく伝わってこない。民主党の堕落もここに極まった感がある。

 私は、マニフェスト違反などという形式論で野田政権を批判しているのではない。原子力の問題は三・一一以後、新たに突きつけられたものである。しかし、民主党の指導者が民主政治について全うな理念を持っていれば、これは解決できる応用問題である。原発は電源喪失でメルトダウンした。野田政権は理念喪失で民主党もろとも、融解しようとしている。

 野田首相は主観において、世論やマスコミが批判することでも自分が決めなければならないと勇気を奮い立たせているのだろう。しかし、決断する勇気は、手段に過ぎない事柄に向けるものではない。後世の歴史家の評価に堪える決定を下したいと望むなら、その勇気は国民不在で政策を進めてきた利権共同体の解体にこそ向けられるべきである。再稼動の前に、脱原発の道筋を明確にする決断をすべきである。消費税率引き上げの前に、公正な税負担の全体像やセーフティネットの信頼性を明らかにする決断をすべきである。

 電力が足りないから、歳入が足りないからという目の前の理由で、重大な政策を徹底した議論もなしに決定するのは、関東軍の独走を既成事実として戦線の拡大をずるずると進めた戦時中の指導者と同じである。

熊本日日新聞6月3日


2012.05.07 Monday 18:47

怨恨の政治に終止符を

 

 四月二六日に小沢一郎、元民主党幹事長が政治資金規正法違反に問われた事件で無罪判決が出て、政界の行方は一層不透明になった感がある。早速消費税率引き上げをめぐって、野田佳彦首相と小沢元幹事長の舌戦が始まった。双方とも、民主党などどうなってもよいという捨て鉢な気分を感じる。それぞれ、責任や国民との約束などと大仰な言葉を使っているが、互いに足を引っ張り合って政党政治を麻痺させることこそ、国民に対する最大の裏切りである。

 野田政権の最大課題とされる消費税率の引き上げは、あくまで手段に関する問題である。税金とは、我々がよりよい世の中を作り出すために必要な拠出金である。我々がどのような社会を目指すのかを議論し、ある程度の合意ができるならば、税金の集め方についてそれほど多くの選択肢が残るわけではない。安定財源としての消費税を無視することはできない。低所得者に対する逆進性対策や中小企業による価格転嫁を可能にするための仕組みを工夫するのはそれほど難しい話ではない。

 同じ民主党という政党にいながら、そしてつい三年前に国民に対して新しい政治を訴えて政権交代を実現したはずの有力な政治家が、これからどのような社会を目指すかについて、身のある議論をすることもなく、政策手段をめぐっていがみ合うという姿は、日本の政党政治の未熟を物語ってあまりある光景である。

 政策決定の前提となる手続き論や、議論に参加する政治家の資格要件をめぐる議論は、すべて本質的な政策論議を回避するための誤魔化しである。変動する政治課題に向き合いながら政権を運営する中でマニフェストに書いていないことに着手する必要が生じることはむしろ当たり前である。また、小沢氏が金に汚い政治家だという批判をしたい人の気持ちは分かるが、今回の事件は検察の暴走の結果であり、政策課題に取り組む際に政治家のクリーンさをあげつらうのは的はずれだと私は考える。あるいは、増税の前にやることがあるというのは、永遠に言い続けられる先送りのスローガンである。

 政権交代から三年が経とうとする今、民主党は政権交代の意義と限界について自ら厳しく総括しなければならない。まず何よりも、この経験が日本の民主政治の歴史にとって大きな意味があったことを国民に証しなければならない。新しい公共や貧困対策のように、政権が代わることによって今まで官僚や政治家の厚い壁に阻まれていた政策が実現したのである。民主党が過度に自虐的になることは、それを選んだ国民を侮蔑することである。

 同時に、民主党は絶好の好機を生かせなかったことについて厳しく反省し、自ら敗因を明らかにすべきである。その敗因の一つは、鳩山政権退陣以降、民主党内が親小沢と反小沢に分裂し、政策実現や原発事故に現れた官僚支配の打破に政治家のエネルギーを結集できなかった点にある。

 自民党は、出来の善し悪しは別にして憲法改正案の骨子を示し、次期総選挙に向けた姿勢を明確にしようとしている。民主党はどんな日本を目指すのか。三年前に示した「国民の生活が第一。」というスローガンは、今後も有効性を持つと私は考える。自助を基調とする自民党の改憲案との間で、争点は明確になる。

 ただし、生活第一を実現するためには金がかかる。無駄を省いて経常的に十兆円規模の歳入を確保するというのは、空想論である。この通常国会での消費税率引き上げに固執しないで、十年後、二十年後の日本の姿をどうするかを徹底的に議論して、生活第一の具体像を共有する努力を最後まで払って欲しい。政治家が怨念や怨恨で動けば、政党政治は国民から見放される。野田首相も、小沢氏も、大義名分を明らかにして行動しなければ、政党政治を破壊した元凶として、後世から非難を受けるであろう。

熊本日日新聞5月6日


2012.04.02 Monday 17:59

政党政治は生き残れるか

 

 このところ、決められない政治という言葉が政党や政治家を批判する時の常套句となっている。政治において、物事の決着をつけることは最大の課題である。与党内、与野党間で結論を持たない政治家が延々と議論を続け、ただ時間を空費する情景を見続けると、国民も政党政治に愛想を尽かしたくなる。「大阪維新の会」へのメディアの注目も、そうした欲求不満のはけ口を求めてのことである。

 まず、決められないことに対するメディアの批判について、問題を指摘しておきたい。決められない理由は、民主党が政党の体をなしていないことと、衆参ねじれ国会で与野党の協力がない限り法案が成立しないという2つである。後者は国民自身の選択の結果であり、いわば国民が決める力を持たない国会を作ったのである。したがって、メディアの説教は国民に向けられるべきである。すべて政治家のせいにする議論は既成政党批判を唯一の売り物にする扇動政治家を利するだけだ。

 もちろん、私は民主党のていたらくに対して人一倍の不満を持っている。権力を追い求めるのは政治家の本能であり、決して悪いことではない。世の中を少しでもよくするためには、政治家が権力を振るうことが必要である。民主党はせっかく国民から負託を受け、権力を持っているのに、内輪もめを繰り返し、権力を行使する手前の段階で迷走している。

 先月半ば、英国労働党の最大のブレーンであるウィル・ハットン、オックスフォード大学教授を招いて、経済危機と政治の役割について論じる機会を持った。同氏は、政党には内部抗争がつきものであり、派閥があるのも当然だが、重要なことはリーダーが党の進むべき方向性や理念を示して党を束ねることだと指摘した。政治家にとって、小異を残して大同につくことは最も基本的な技能である。

 税・社会保障一体改革は不可避の課題である。この課題を解決する能力は日本政治にないという烙印を押されたら、国債の格下げと暴落、金融機関の経営悪化が起こる。国債は国の借金である一方、国民の資産であり、それを防衛するという観点からも税制改革は必要である。さらに、民主党が政権交代の時に掲げた「生活第一」を実現するためにも、税収の拡大は不可欠の手段である。今必要なのは、無駄を省けとか、議員や公務員を減らせという些末な議論ではなく、我々が日本社会をどう再建するかというビジョンに関する議論である。税は単なる収奪ではなく、我々が社会保障と教育を中心に、国民の生活基盤を再建することで利益を得るという理念論こそ必要である。

 ついでながら、無駄を省くという議論はもう止めた方がよい。たとえば、大都市住民及びそれを反映するメディアは北海道新幹線を無駄の象徴のようにいうが、鹿児島まで新幹線ができた今、なぜ札幌まで新幹線を伸ばすことを無駄と非難されるのか、北海道の人間は理不尽だと思っている。無駄とは相対的な話なので、永遠に結論が出ないのである。

 では、具体的にどう隘路を打開するか。鍵は野党が握っていると考える。自民党、公明党が手続き論の次元での民主党批判を止めて、税・社会保障改革に関する自らの案を提起すべきである。そうすると、中身にはあまり違いがないので、政府与党はこれを丸飲みするであろう。一九九八年の金融危機の際には当時の野党民主党が対策を提示し、自民党が全面的に譲歩した。そういえば、あの時、菅直人民主党代表が金融危機を政局にしないと言って、小沢一郎自由党代表が猛反発したことを思い出す。

 外ではグローバル金融市場の貪欲が日本をネタにひと儲けをたくらみ、内では扇情政治家による怪しげな動きがある。その2つに挟まれて、政党政治は最大の試練に直面している。政治家が国難という言葉を使うなら、速やかに国難を打開するための決定に、党派を超えて協力すべきである。まずは、野党が動きを起こして欲しい。

熊本日日新聞4月1日


2012.03.05 Monday 17:54

本当の危機感が必要な時

 

 年度末を迎えて、国会での与野党対決も厳しさを増している。与野党間のみならず、民主党内でも政治資金問題で足かせが外れると自信を持った小沢一郎氏の動きが活発になり、分裂の気配さえ漂う。そして、衆議院の定数不均衡は違憲状態となったにもかかわらず、当の代議士たちはこれを速やかに是正するという行動も取れていない。

 他方、橋下徹大阪市長が率いる大阪維新の会は「船中八策」なる文書を発表し、国政への進出の動きを始めた。橋下人気はひとえに民主、自民を中心とする既成政党への幻滅が膨張させている。中央政治の中で、実行を持ってこうした批判や挑戦を受け止めようという動きは乏しい。それどころか、橋下人気の尻馬に乗って何とか次の選挙の生き残りを図ろうという浅ましい魂胆を持った連中がうごめいて、政治家の信用は下がる一方である。

 政治家は次第に近づいてくる次の選挙で負けるのではないかという危機感を募らせているようだが、政治家がそのような次元の危機感しか持てないことこそ、日本政治の最大の危機である。この危機には、国政に携わるすべての政党、政治家が責任を負わなければならない。


 だが、打開策も見えてきたように思う。二月二九日に行われた党首討論で、野田佳彦首相も谷垣禎一自民党総裁も、消費税率の引き上げによる社会保障の安定財源の確保については意見が一致した。当面の危機対応で一致できるなら、さっさと対策を実行すればよいと国民も思ったはずである。だが、あの党首討論を聞く限り、自民党はもっぱらマニフェスト違反という手続き論や民主党に増税を提案する資格はないという形で、責めていた。

しかし、今の日本ではそのような形式論をしている場合ではない。政治の本質は、資源分配の変更である。国民から税金を集め、それを社会正義や公平の観点から再分配するのが政府の仕事である。誰から取って誰に渡すかという話をしだせば、取られる側は反対する。しかし、国債に頼るのはもう限界である。大阪維新の会が打ち出した八策は、一院制や首相公選など統治機構に偏っており、資源分配の問題については無内容である。彼らは資源配分をめぐる政治の葛藤から逃げるために、統治機構の話で国民を欺いているのである。しかも、その統治機構論たるや、国民の基本的事件の何たるかもわきまえない野蛮なものである。自民党も増税問題で内部分裂を回避し、泥をかぶりたくないから、手続き論、形式論に逃げ込んでいるように思える。

 私は、大阪維新の会の運動は民主主義の破壊だと信じるから、民主、自民、公明などの既成政党に、民主主義を守るための提案をしたい。国政に責任を持つ各政党は、政党危機に直面し、政争の一時停止(モラトリアム)を宣言し、今年の内に解散総選挙を行わないことを明らかにすべきである。この夏に総選挙を行うならば、一時の突風で橋下新党が躍進し、ナチス台頭時のドイツ議会のような状態が生じるかも知れないからである。その上で、税・社会保障改革、衆議院定数是正、震災復興の進捗、原子力災害への対処などの緊急課題について、トップレベルでは党首討論、実務レベルでは委員会における協議を頻繁に開催し、一致点を探るべきである。そして、その一致点を反映させて予算を修正し、予算と関連法案及び定数是正の速やかな成立を実現すべきである。

 二〇〇九年の政権交代が日本の民主政治を成長させる一歩となるのか、底知れぬ政治混乱、政党崩壊の引き金となるだけなのか、今がまさに分かれ道である。東日本大震災の直後には、大連立構想が浮かんで消えた。あの時は巨大災害に対処するための超党派的政治の主張であった。今回は物理的な意味での巨大災害だけではなく、政治的な意味での災禍を防ぐためにも、政党政治家の良識が必要とされているのである。

熊本日日新聞3月4日


2012.02.06 Monday 16:18

政治における論戦の姿

 

 通常国会が始まり、野田政権が進める税・社会保障一体改革をめぐって論戦が展開されている。この論戦を見ていると、日本の政治の大きな欠落が浮かび上がる。


 第1は、手続き論の政治という限界である。確かに、野田政権が
2009年のマニフェストに書いていなかった消費税率引き上げを正面に掲げるのは、公約違反である。負担増を封印したマニフェストを作って政権を取った民主党は、その戦術の誤りを率直に認め、国民に謝罪しなければならない。

 しかし、マニフェストを金科玉条にするという姿勢も、政党政治の放棄である。政治とは変転する環境の中で国民の利益を追求する活動であり、選挙時の公約を機械的に実行することではない。東日本大震災による巨額の財政支出、欧米諸国における財政赤字を原因とする金融不安など、マニフェストを準備する過程では予想できなかった問題も次々と日本を襲っている。これに対処することは政治の使命である。マニフェストを弊履のようにすてされとは言わないが、基本理念と当面の課題への対応を区別するのは当然である。

 自民党は公約違反という手続き論で解散総選挙を求めている。しかし、これは落選議員という自民党の最大派閥の主張に沿う党利党略である。自民党自身が国民負担の問題についてどう考え、これからの社会保障や政府活動についてどのようなビジョンを描くのかを語らなければ、有意義な選挙はできない。今の自民党には、長年、国を担ってきたという誇りが感じられない。

 第2は、租税国家という財政民主主義の基本が与野党の政策論議において理解されていないという問題である。政府は社会保障、防災などの公共サービスを国民のために実行し、それに必要な財源は国民自身の租税でまかなうというのが租税国家の意味である。しかし、現在の日本における税制論議においては、国民の被害者意識をくすぐる議論ばかりで、主権者=納税者として能動的にどのような社会を作っていくかという前向きの議論が存在しない。

 その原因の1つは、財務官僚の体質にある。財務官僚が健全財政に固執するのは職業柄当然とはいえ、社会の健全性と切り離して財政の健全性を考えるところに財務官僚の病理がある。国民が元気で働かなければ、どんな増税をしても税収は増えない。自然災害、雇用の劣化、地域社会の疲弊など、特に若い世代にとっては自分たちに責任のない問題によって、元気で働くことが難しい時代となった。ここは多少借金をしてでも、若い人々が家族を持ち、生き生きと働ける環境を作らなければならない。近視眼的な帳尻合わせの発想を脱却し、未来に向けた投資を行うためにこそ、政治家の指導力が必要である。

 2つ目の原因は、国民や政治家、そして一部のメディアが税金を単なる収奪と捉え、これに対する国民の被害者意識をくすぐることで人気を取ろうとしていることである。上に述べた財務官僚の体質を見れば、増税を取られっぱなしの収奪と考えることも無理はない。しかし、税金を前近代の年貢と同じように捉える見方がいまだに根強いことは、政府の役割を論じる際の妨げとなる。税金が高くても、それに見合うだけ政府が公共サービスを行い、雇用、社会保障、教育を充実させれば、国民生活は豊かになる。

 要するに、我々はどれだけ税金を払い、どのような社会を作りたいのかという基本の議論をすればよいのである。年金改革の長期展望を示せば国民が誤解して、税・社会保障改革が進まないと民主党は言ったが、それが本心なら民主党などという看板を下ろすべきである。

 先日、50年後の人口予想が発表され、国民はショックを受けた。今こそ、我々が30年後、50年後の日本人にどのような国を残すのか、本気で議論する時である。通常国会の税制論議をその入り口にして欲しい。

熊本日日新聞2月5日


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