2008.07.17 Thursday 00:00

政治大転換の時代と新聞

 転換期という言葉はいつの時代にも使われてきた。昔の雑誌を読んでいると、今から思えば高度経済成長の黄金時代であった一九六〇年代半ばでも、「転型期」という言葉が盛んに使われていた。現状に満足する人は不確かな未来への不安ゆえに、現状に不満を持つ人はよりよい将来への希望ゆえに、それぞれ変化や転換という言葉で同時代を捉えるのであろう。

 とはいえ、今は日本の政治にとってかつてない本当の転換期だと私は考えている。それを一言で表せば、自民党という政党が日本を支配することが当たり前であった時代が終わろうとしているということである。福田政権の支持率は二〇%前後を低迷しているが、より重要なのは政党支持率である。今までも一時的に野党の支持率が上昇することはあったが、選挙のない平常時に与野党の支持率が拮抗することはなかった。昨年の参議院選挙以来一年間、自民党と民主党の支持率が一貫して拮抗し、時によっては民主党支持が上回るなどという事態は、未曾有のことである。それだけ政権交代への期待が高まる、あるいは抵抗が薄まっているのであろう。

 政権を担える政党が増えるということは、民主政治にとってよいことである。しかし、政権交代を起こすことが、国民自身によってよりよい社会を造り出すことにつながらなければ、政党政治への期待はすぐに冷めてしまうだろう。その意味で、政党の政権構想を鍛える作業こそ、急務である。幸か不幸か、福田政権は解散を先送りしようとしている。それだけ、政策を論じる時間が増えたと考えればよい。そして、政策論議においてメディア、就中、活字メディアが果たすべき役割はきわめて大きい。

 小泉政権の時代から、政治家はメディアを積極的に利用し、政治家は政治を分かりやすくすることに腐心するようになったと言われる。しかし、私はメディアが政治を分かりやすく伝えているとは思わない。小泉氏が政治を分かりやすくしたと評するメディアがあるならば、それは評者の無知をさらけ出すようなものである。分かりやすく報じることと単純化することは異なるのである。

 たとえば今、後期高齢者医療制度が高齢者の批判を集めている。しかし、小泉構造改革を批判的に論評してきた者から見れば、ようやく気づいたかと言いたくなる。医療難民、介護難民の発生、非正規雇用の増加によるワーキングプアと呼ばれる貧困の深刻化。今の日本を脅かしている問題はどれをとっても、小泉時代に行われた政策選択の必然的な帰結である。数年前、ほとんどのメディアはこうした政策転換を「改革」ともてはやした。改革という言葉の具体的な意味を詮索したメディアはどれくらいあっただろう。

 民主政治において国の運営に誤りなきを期するには、言葉の意味を見極めることが不可欠である。先日公開された『実録連合赤軍』という映画では、四〇年前の学生運動において、「革命」や「総括」という言葉が、意味を覆い隠されたまま集団的興奮を作りだし、リンチ殺人という悲惨な結末に至る様が描かれていた。これは極左集団の特殊なエピソードではない。つい最近の構造改革は、方向の違う「総括」だったのではないか。

 私はテレビには期待していない。我々自身が経験するように、話し言葉ではいくらでもごまかしがきく。ネット空間に飛び交う言葉は一見書き言葉に見えるが、感情をそのままぶつけ、読み直しを経ていないものであり、話し言葉に近い。言葉の意味を詮索し、じっくり考えるためには、活字メディアの書き言葉が必要である。最近、記者や編集者の友人と話をしていると、活字メディアはどこも厳しい経営環境にあるとのこと。しかし、人々は信頼できる情報に飢えている。政治の転換期こそ、活字メディア、とりわけ新聞の力量が問われる時である。(山陽時評7月16日)

2008.04.06 Sunday 23:59

08年4月:ねじれ国会と参議院の苦悩

 三月中旬、江田五月参議院議長のご厚意により、議長公邸で政治学者を集めた研究会を開いた。故江田三郎氏が社会市民連合を立ち上げた頃からのアドバイザーであった篠原一東京大学名誉教授をゲスト講師に招いて、民主主義論の現状について議論した。私以上の世代の者にとっては、大変感慨深い会合であった。三〇年前に、憤死寸前の江田三郎がまいた種がともかく育ち、社会市民連合というミニ政党出身の江田氏が参院議長、菅直人氏が民主党代表代行として、二大政党政治の一翼を担っている。政治の変化というものは、これくらい長い時間の幅で考えなければならないのだろう。

 しかし、国会の現状を見れば感慨にふけってばかりはいられない。江田議長からも、参議院が与野党対立状況の中でどう動くべきかという問いかけがあった。議長の苦悩が偲ばれた。もちろん、簡単な即効薬はない。篠原先生は、最近ヨーロッパで注目を集めている「討議民主主義」という理念についての講演をした。まさに、議論を徹底して深めることによって合意と政策を作るという理念を現代政治の中でどう生かすかというテーマは、世界の民主主義国で共通の関心事となっている。

 その講演の中で、「民主的反復」という言葉が印象に残った。そもそも短時間の議論で結論が出るような問題には大した意味はない。たいていの重要課題については、甲論乙駁、議論が続くものである。いつ合意ができるか分からないし、同じ論点をめぐって議論が堂々巡りすることはまどろっこしいが、ともかく反復を重ねる中で、なにがしかの到達点が見えてくるということである。民主主義の先達であるヨーロッパ諸国でも、地方政治のレベルを中心に、様々な参加や討論の試みが重ねられている。

 考えてみれば、参議院での与野党逆転からまだ一年も経っていないので、新しい討議のルールを造り出そうというのもせっかちな話かも知れない。また、国政レベルの政治には常に権力闘争がつきまとう。これを否定することは非現実的である。与野党に話し合いを求める全国紙の社説は、学者が言うのも変だが、あまりにも教科書的な絵空事であろう。

 今の日本政治で討議民主主義を阻んでいる要因として、次の二つをあげることができる。第一は、衆議院における与党の三分の二という絶対多数である。憲法の規定により、参議院で否決された法案も衆議院の三分の二以上の多数によって成立させることができる。そうなると、与党は力ずくで法案を成立させようという誘惑に駆られるし、野党は参議院において、法案否決の結果に責任を負う必要がないので、心おきなく反対できる。こうなると話し合いの気運は高まらない。

 第二は、福田政権が正統性を欠いている点である。福田政権は自民党内の都合でできたもので、まだ国民の審判を受けていない。政権支持率は下降気味で、一年以内に総選挙が予想されるという状況では、野党は国政の安定よりも、政変をねらいたくなる。結局、国会で討議民主主義を作動させるためには、早期の解散総選挙が前提条件になるのである。与党は、三分の二の多数を失うのは痛手と思うのだろうが、もし福田自民党が勝利すれば、三分の二を失っても、直近の民意による支持という強い正統性を持つ。国民によって選ばれた政権が当面続くとなれば、仮にねじれ状態が続いたとしても、野党は話し合いに向けて妥協せざるを得なくなる。

 参議院における与野党逆転状況は、この半年あまりの間、いくつかの重要な成果をもたらした。何よりも、道路予算の実態など自民党安定政権時代には見えていなかった政治や行政の暗部、実態が明るみに出たことに意義がある。国民にとっても、次の選挙における判断材料は増えたであろう。次の総選挙をくぐることによって、日本の政党政治はさらに進化するのではなかろうか。(山陽新聞4月6日)

2007.12.03 Monday 14:31

07年12月:野党優位の参議院で民主党は何をなすべきか

 臨時国会では、テロ対策新法の審議が難航したうえに、防衛省をめぐる不祥事が加わり、混迷の様相が深まっている。国会審議の難航は夏の参院選の結果が明らかになった時点から予想されたことではある。それにしても、いわゆるねじれ国会の運営をめぐって、与野党が手探りを続けている印象である。

 参議院で与野党逆転し、ねじれ状態になったこと自体は、日本の議会政治にとってきわめて有意義なことだと私は考えている。臨時国会で法案が成立していないことをもって、国会が機能していないという批判の声もある。しかし、野党優位の参議院を作りだしたのは他でもない民意であり、簡単には法案が通らない状況は民意の帰結である。この臨時国会には補正予算も出ていないので、短時間のうちに決着をつけるべき喫緊の課題は、テロ対策以外にはない。そのテロ対策にしても、旧特措法の失効によりインド洋での海上自衛隊による給油活動が停止したが、日本の外交に実害が生じているわけでもない。

 また、参議院の逆転により、安全保障や薬事行政に関する国会によるチェックや情報開示が飛躍的に進んだことは、「ねじれ」の効用である。国会は憲法で「国権の最高機関」と規定されながら、今までは政府提出法案を大過なく成立させることを最大の役割としてきた。こと行政に対するチェックとなると、官僚をかばう与党側の消極姿勢によって、国会に本来与えられた権能を十分発揮できなかった。まさに、与野党逆転によって国会はようやく目覚め、最高機関の片鱗を見せ始めた。

 しかし、国会の現状がこれでよいわけではない。この臨時国会では、与野党がそれぞれの基本政策を示すことでわかりやすい形で対決し、次の総選挙に向けて国民の判断材料を示すところにこそ、最大の課題があったはずである。その観点から評価すると、与野党ともに及第点は与えられない。

 まず、民主党の小沢一郎代表が大連立に踏み込もうとしたことは、政党政治の論理を自ら否定することであった。この失敗に懲りたのか、騒ぎが収まったあとの民主党は、逆に政府与党との全面的な対決の路線を取っているようである。野党の仕事は政府との対決であり、妥協を排するのも一つの見識である。しかし、行政の腐敗を正したり、政策の失敗を追及したりするために対決するという原点を見失ってはならない。

 目下の国会の最大の焦点は、額賀福志郎財務相と守屋武昌前防衛事務次官や軍需商社の癒着の有無である。話は額賀氏が嘘をついているかどうかに集中し、参議院財政金融委員会では野党単独採決により額賀氏の証人喚問を議決するに至った。国会の証人喚問は伝家の宝刀であり、その運用には慎重さも求められる。国会の多数派が政敵を証人喚問しつるし上げるようなことがあれば、それはまさに多数の専制である。守屋事件を契機に明らかになった防衛利権の実態解明と発注手続きの改善は、国会の課題である。そのために国政調査権を発動することは制度の趣旨にもかなう。しかし、額賀氏が嘘をついたかどうかは問題の本筋からはずれている。

 政治の世界だから、政敵を叩いて得点を稼ぐという動機はつきものである。しかし、民主党の政治的能力に対する信頼を高めるという大きな目的に照らして、参議院での戦い方を熟考する必要がある。参議院で多数を握ったことにより、民主党は政治的判断力を問われることとなった。ここで政治的未熟さをさらけ出せば、政権交代は遠のく。

 国会がまずなすべきことは、「テロとの戦い」とは何か、防衛省の高額な発注をいかにして透明化するかといった重要問題に関して、実態を明らかにした上で、徹底的に議論することである。政府与党との相対的な力関係のみにとらわれていては、判断を誤ることになる。議会政治の原点に戻り、国会の権能を的確に行使することこそ、政権交代への王道である。(山陽新聞12月2日)

2007.08.07 Tuesday 12:42

07年8月:参議院選挙の教訓

 七月二九日の参議院選挙では、自民党が予想外の大敗を喫した。注目された岡山選挙区も、民主党の新人、姫井由美子氏が片山虎之助氏を破るという大金星を上げる結果となった。大敗にもかかわらず、安倍晋三首相は退陣を拒否し、政権担当への意欲を示した。制度上、首相が続けたいといえば誰も止められない。首相の留任が、自民党、さらには日本の政党政治の再生につながるかどうか、より大きな責任が問われることとなるであろう。

 自民党の大敗には、急性的原因と慢性的原因がある。閣僚の失言や政治と金をめぐる疑惑の噴出などが急性の原因である。これらは、内閣改造や党人事によってある程度対応することができる。世代交代を急がず、改憲志向のイデオロギーで内閣や与党を染めることを避け、見識と経験を持った政治家を登用することができれば、自民党のイメージも変わるであろう。

 しかし、自民党の危機は慢性的な原因に由来している。イメージの転換だけではなく、安倍首相が就任以来目指してきた政策や路線の見直しがともなわなければ、自民党に対する逆風は収まることはないと私は考える。

 二一世紀に入って、小泉純一郎前首相によって自民党は小さな政府、市場競争重視の路線に舵を切った。今回の参院選は、その路線によって痛めつけられた人々の反逆の機会となった。重要なことは、日本経済の構造が変わってしまい、成長の恩恵が各地、各層に均霑(きんてん)しなくなった点である。現在の繁栄は、弱者に対する再分配を削減したことによってもたらされたものであり、成長を実感に変えることはそもそも困難である。地方で長年自民党を支援してきた農民、自営業者などはその点を肌で感じたからこそ、自民党から離反したのである。民主党を率いる小沢一郎氏は、その点を巧みに衝いて、保守層の分裂を誘い、一人区での大勝を実現した。

 秋以降、国会での与野党対決が厳しくなると思われる。自民党はもとより、大勝した民主党にとっても茨の道が待っている。民主党では、長い間野党のモデルについて、抵抗路線と対案路線という二つが、二者択一のように論じられてきた。参議院の第一党となった今、民主党はこの二つの路線を両立させなければ、政権交代への道を開けないであろう。

 まず、抵抗の重要性を指摘しておきたい。民主党が参議院で法案をつぶせば国民生活に迷惑がかかるという揺さぶりもあるに違いない。しかし、民主党が国民の利益に反すると信じる法案に対しては、明確に反対を貫き、その理由を国民に分りやすく説明すればよい。幸か不幸か、衆議院は与党が三分の二の議席を持っているので、参議院が否決した法案を再議決し、成立させられる。民主党が法案成立の余裕を残した上で否決すれば、自民党と民主党の政策論争が衆議院と参議院の論争という形で具体化する。先の通常国会では強行採決が乱発され、まともな政策論議はなかったが、民主党が抵抗を貫くことで政策論争が活性化するであろう。

 同時に、折角参議院の多数を握っているのだから、参議院から新たな立法を提案し、政権交代の予告編を国民に見せることも必要である。地方分権、温暖化防止のイニシアティブなど民主党が得意とする政策テーマについて腕を振るえば、政権担当能力への期待も高まるであろう。また、自民党や公明党も、政府提出法案にただ賛成するという形式的な審議だけではなく、野党から投げかけられたボールを打ち返すという新しいスタイルの法案審議に参加することによって、本当の政策能力を問われることになるであろう。

 どんなに遅くても、来年のサミット直後までには衆議院の解散、総選挙が行われるであろう。秋以降の国会で、どの政党が次の政権を担うにふさわしいか、活発な論争が行われることを期待したい。(山陽新聞8月5日)

2007.04.25 Wednesday 16:21

07年4月:統一地方選挙を振り返る

 いろいろな意味で注目を集めた今回の選挙は、地方政治の潮目の変化を物語っているように思える。

 前半の知事選挙では、片山善博鳥取県知事、増田寛也岩手県知事など、地方分権や自治体改革をリードしてきた改革派知事が勇退した。出処進退は本人が決めることとはいえ、将来に富むこれらのリーダーの勇退を早すぎると感じるのは、私一人ではないはずだ。また、彼らが進めてきた自治体改革の流れが一つの壁にぶつかっている一方、東京では唯我独尊の石原慎太郎氏が楽勝したことには、焦りや苛立ちを覚える。

 改革派知事が日本の地方分権や地方政治に与えた貢献は、きわめて大きいものがあった。何よりも、地方レベルで民主政治を発見したことこそ、改革派知事の最大の功績である。分権や改革が政治課題となる前の時代、一九九〇年代前半までは、地方には行政はあっても政治はなかったということができる。国のお仕着せによる政策を着実に実行することが、自治体リーダーの仕事であった。実は、先日財政再建団体になった北海道夕張市も、そうした旧式のリーダーシップが暴走した結果、破綻をもたらしたということができる。地域住民のニーズや町の長期展望はお構いなしに、中央が与えてくれる金を当てに事業を拡大するという点で、まさに下請け行政の発想こそが失敗の原因であった。

 これに対して、改革派首長は地域の政策のニーズを汲み取り、地域の将来展望を見据えて政策の取捨選択を行った。その中で、法律を独自に解釈し、地域の実情に合った政策を打ち出した。鳥取県西部地震の際に県独自で家屋の再建補助を行ったことはその典型であった。そこには地域の発意によって政策を作り出すという意味での政治が存在した。

 しかし、改革は政治や行政の仕組みのレベルにとどまり、地域における経済や雇用については目覚しい成果を挙げることは少なかった。小泉改革の名の下に、地方に対する交付税や公共事業費は大幅に削減され、どんな有能な首長でも地域経営には大きな苦労を強いられた。また、県レベルの政策によって地域の疲弊を食い止めることは、そもそも無理な話である。こうして、たとえば北海道では、再び国の下請け型の行政へ復帰することを求める空気も現れつつある。こうして見ると、改革派首長の行き詰まりは、社会経済における東京一極集中と関連していることが分る。

 疲弊する地域を再生する政策について、今回の選挙でめざましい論争があったわけではない。もちろん、それは国全体の大きな難問であり、個々の自治体の手に負える課題ではない。ただし、一つの希望として、厳しい現実を直視した論争が多くの地域で始まったことを指摘しておきたい。夕張市はその典型である。市民はまじめに考え、選択を下したように思える。ケネディ大統領の演説を借りれば、町があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが町のために何ができるかを考えようという雰囲気が現れつつある。中央政府におねだりをして予算をもらってくることが地方政治だという時代は、住民意識の中でも過去のものとなりつつある。

 安倍政権のもとで、新たな地方分権推進委員会が始動した。議論の大前提として、二一世紀にどのような国土像を目指すのか、その基本的哲学を明確にすることが必要である。財源さえ確保されれば、改革派首長のまいた種は芽吹き、成長するはずである。逆に、効率一辺倒で一極集中を加速すれば、どんな優秀なリーダーでも地域の疲弊をとめることはできない。東京のわがままを許さないという点で、石原氏の当選は 残念である。ともあれ、リーダーは入れ替わっても、地方から分権と地域の平等を求める声を上げ続けなければならない。新たに選ばれたリーダーの活躍を期待したい。(山陽新聞4月25日付)

2007.01.31 Wednesday 15:05

07年01月:試される政党政治

 いよいよ通常国会が始まった。安倍政権発足後の最初の通常国会であり、安倍政治の本質について十分な議論の場となるべき国会である。また、今年は統一地方選挙、参議院選挙が予定されており、政治の年の幕開けにふさわしい論戦を期待したいところである。

 一月下旬に発表された報道各社の世論調査では、安倍政権の支持率がさらに低下し、国民は政治の現状に大きな不満をいただいていることが明らかとなった。考えてみれば、それも当然である。昨年秋の臨時国会では、安倍政権は教育基本法改正や防衛省昇格など、自民党にとっての長年の懸案を処理した。しかし、これはあくまで自民党の、それも一部のイデオロギー的な政治家が執心してきた懸案であって、これらの法律が通ったからといって、国民にとっての教育問題や安全保障問題が解決されるわけではない。言ってみれば、政治家にとっての自己満足の立法である。

 国民生活に直結する政策について見れば、昨年末の税制改正では個人に対する定率減税の廃止が決定されたのとは対照的に、企業に対しては投資減税が決定された。また、この通常国会への提案は見送りになったものの、ホワイトカラーエグゼンプションを中心とする労働法の規制緩和も推進されている。いわゆるアベノミクスは、企業や富裕層を優遇することで経済成長を促し、その果実を財政赤字削減や一般庶民へ波及させることを目指している。しかし、いざなぎ景気を超えると言われる景気拡大の継続の中で、勝ち組以外の所には経済成長の恩恵が及ばないことを普通の人々は実感している。

 経済政策の基調は、小泉政権も同じであった。しかし、小泉首相は自民党や官僚組織を相手に、既得権を剥奪すべく果敢に闘ったというイメージを振りまいていた。世の中がもっと公正、公平になるのならば、経済的な結果の平等はあきらめようというのが一般国民の受け止め方だった。その点で、安倍政権はかなり後退した印象がある。郵政造反組の復党を安易に許し、道路特定財源の見直しでは族議員の聖域に手を入れることはできなかった。経済格差が拡大する一方、力の強いものの利益が温存されるというのでは、国民もたまったものではない。安倍政権の人気急落には、そのような深い理由があるように思える。

 野党にとっては、絶好のチャンスが到来したはずである。しかし、最大野党、民主党も様々な不祥事を抱え、国民の期待感はきわめて低い。小沢一郎代表が出るテレビCMの出来が悪いといった些末な理由ではなく、より深い原因を自ら直視してもらいたい。要するに、民主党が政権を取ったらどのような日本を作りたいのか、そのメッセージが伝わってこないのである。政治とは生活だという小沢代表のスローガンに私は賛成である。しかし、そこからさらに踏み込んで、地域格差、雇用、年金などについてどのような具体策を取るのかが、はっきりと見えてこない。

 戦後の長い間、国民は孜々として働き、企業がそれに応えて賃上げをして、全体として国民は豊かになってきた。「生産性を上げる→企業収益が上がる→賃上げで労働者に還元される→年金や公務員給与引き上げで社会全体に波及する」というサイクルが健全であった時代には、政治の出番は少なかった。今の日本経済は、企業収益の上昇の所でこのサイクルが途切れている。だからこそ、経済成長の成果を国民全体で分かち合うためには、税制、社会保障制度、労働法制などの工夫が必要であり、そこに政治の出番がある。

 安倍政権が日本経団連など経済界と蜜月の関係にある以上、野党が取るべき足場は中小企業、地方、年金生活者ではないか。二大政党に向けてこれほどわかりやすい状況はない。もちろん、経済界を敵に回せとは言わないが、アメリカ流の「勝者皆取り」の経済を目指すべきかどうか、本質的な論争が必要とされている。まさに政党の政策能力が問われているのである。(山陽新聞1月28日号)

2006.10.14 Saturday 02:50

06年10月:安倍晋三氏に必要な言語能力


 自民党総裁選挙は、最初から最後まで緊迫感を欠いたまま終わり、安倍晋三総裁の誕生となった。個人的な感想を言わせてもらえば、五〇歳を過ぎても祖父や父親が偉かったという自慢話を平然とするような人物を、圧倒的多数の支持で総裁に選ぶ自民党は、政党としての生命力をかなり失っているように思える。安倍氏は美意識を前面に出しているが、日本人の伝統的美意識では、身内の自慢を人前ですることはとても恥ずかしいことと考えられてきた。「美しい」に限らず、安倍氏はあまり考えずに言葉を使っているように思えてならない。

 総裁選挙の戦いの中で、安倍氏はただ一人、重要な政策課題について具体的な言明を避け、あいまいな物言いを通してきた。しかし、中には今までの日本の政治や外交の根底を覆しかねない仰天発言もあった。たとえば、日中国交回復の際に、当時の周恩来首相が日本の侵略戦争は当時の軍国主義指導者が引き起こしたのであり、一般国民は被害者だと述べて、歴史問題の決着を図ったことについて、安倍氏はそのような論理を受け入れないと公言した。この言明を具体的に敷衍するなら、二つの結論しかない。一つは、国民全体に責任があるのであり、上官の命令といえどもこれに従い、他国民を殺傷した末端の兵士まで罪を犯したという議論である。もう一つは、軍国主義指導者も悪くはないのであって、そもそもあの戦争について中国に謝る必要はないという議論である。安倍氏の日頃の言動から、彼は二番目の立場に立っているはずである。だとすると、彼は日本の戦争を肯定しているのであって、戦争の評価は後世の歴史家に任せるという日頃の発言と矛盾する。

 これはほんの一例である。かつて官房副長官時代に、早稲田大学での講演で、日本も核武装を検討すべきだと発言して物議を醸したこともある。七月の北朝鮮がミサイルを発射した時には、敵基地を攻撃することを検討する必要があると述べて、安倍氏が先制攻撃を容認したものと海外で報道された。どちらの事例でも、安倍氏は後で、報道のされ方は本意と異なると釈明した。しかし、メディアは安倍発言をねつ造したわけではなく、安倍氏の発言の中にそうした見出しを招く内容があったことは事実である。

 安倍氏の考えに対して私自身には異論をたくさんあるが、今はそうした政策内容の議論よりも、そもそも首相としてどのように言葉を使うかという入り口の段階での議論が必要である。安倍氏の発言からは、彼の周囲にいると言われる威勢のよいタカ派評論家が、日頃右派雑誌に書き散らしているアジテーションが透けて見える。無責任な評論家が仲間内で強面の競争をするのはそれほど有害ではないが、国の最高指導者が不用意な発言をし、日本が孤立するとなると、害は国民全体に及ぶ。たとえば、核武装や先制攻撃を日本が真剣に検討すると言い出せば、そのこと自体でアジアの緊張は一気に高まり、アメリカの対日警戒感も強まる。「綸言汗のごとし」という教えを、最高権力者となる安倍氏はかみしめるべきであろう。

 小泉時代の騒々しい政治ドラマに、多くの国民は飽きている。今回の総裁選挙をめぐるメディアの報道姿勢、それを受け取る国民の冷めた反応からも、小泉流劇場政治の再来はもはやあり得ないことが窺える。だとすると、安倍政権の下では指導者が政策を丹念に国民に説明し、野党との論戦を通し、国民の理解を深め、政策選択の誤りなきを期すという本来の民主政治に戻ることこそが必要である。そのためには、安倍氏が今まであいまいにしてきた政策課題についても、闘う政治家の面目を示すためにいささか勇み足の圧源をしたテーマについても、現実を直視し、熟慮を重ねて、自らの政策、信念を具体的に示すことが不可欠である。カタカナ言葉を振りまいて、国民を煙に巻くようなことはやめてもらいたい。(山陽新聞10月1日)

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