2011.03.22 Tuesday 18:47

民主主義と自治

  今の日本に横溢しているのは、既存の政党政治に対する絶望と、強力な指導者への待望である。26日の名古屋市、愛知県における選挙、住民投票の結果は、代表民主主義に対する欲求不満を物語っている。また、菅政権に対する支持が極めて低いことも、首相の指導力の欠如、民主党が政党の体をなしていなことなどへの不満の表現である。逆に河村たかし名古屋市長や橋下徹大阪府知事への期待が極めて大きいことは、これらの首長が既成政治家という敵と果敢に闘っているように見えているからである。

 民主主義を指導者選出のための競争の仕組みと考えるならば、日本国民の政治に対する態度は主権者らしいものと言えるかもしれない。もっとも、偽指導者を排除するための眼力を自ら身につけようとしない点で、主権者としては失格だともいえるが。

 それよりも大きな問題は、民主主義を指導者選出の仕組みと考えることが適切かどうかである。民主主義とは、本来デモス(民衆)の支配という意味であり、治者と被治者の同一性という原理から出発しているはずである。ならば、被治者として支配者を選ぶことだけに満足するならば、民主主義の半面しか実践していないことになる。そのような考え方では、民主政治は指導者が人気を競う市場ということになってしまう。

 折しも、アラブ世界で市民の決起による体制変革が相次いでいる。それらの光景を見れば、民主主義の原点がどこにあるかを思い出すことができる。もちろん、日本のように民主主義が制度化されて数十年もたった国では、民主主義とは主として選挙や議会に存在することとなる。それにしても、政治の根源はあくまで人々の意思にあることは、制度化以前と以後で変わりはない。

 所詮、指導者は被治者の反映である。受動的に、魅力的に見える指導者の出現を待ち望む国民の前には、魅力的に見せることの上手な指導者が現れる。それが政治における市場原理である。人々が指導者の力量を詮索する能力を持たないならば、魅力的に見せることだけが指導者を選ぶ基準になる。だから、テレビのバラエティ番組で訓練を受けた人物が圧倒的な人気を集める結果になる。

 民主政治を自治と考えるならば、指導者には異なった資質が求められる。公共的課題を見据え、的確な解決策を提示し、それに対する支持を集めるための説得能力を持たなければ指導者は務まらない。市民税10%減税を売り物にし、それに疑問を唱える市議会を解散に追い込むような市長を私が偽指導者と呼ぶ理由は、本誌の読者ならば容易に理解されると思う。

 自治と言っても、そんなに難しい話ではない。サウンドバイト(断片的な言葉)に飛びつかないこと。ある政策が自分にとって得かどうか少し時間をかけて考えること。それができるだけでも自治は前進する。

 人々がよい指導者の出現をただ待つだけならば、何度政権交代を起こしても、欲求不満が解消されることはない。4月の統一地方選挙は、多少能動的に選挙に参加することを試みるチャンスである。

社会運動372号(2011年3月15日)


2011.03.22 Tuesday 16:04

政党政治は生き残れるか

 

1 民主党政権の失敗と自民党の混沌

 民主党の欠陥、菅政権の問題については既に様々な指摘がある。しかし、現在の政治的混迷の原因を民主党の未熟さだけに求めるというのは近視眼的議論である。民主党を他の党に取り替えれば何とかなるという話ではないからである。自民党は一昨年の大敗の総括さえ自力でできず、政権奪還の路線議論もしていない。ただ民主党の自滅の反射的利益を得ているだけである。中央、地方のその他の新勢力も、既成政治の否定以外に語るべき中身を持っていない。今むしろ、日本における政党というものの存在が問われていると考えるべきである。

 民主党は自民党政治を否定するために戦ってきて、一応その目的を達したわけである。実体としての自民党を下野させることはできても、そもそも自民党的なるものとはなんだったのか。機能的な意味で自民党政治を否定するとはどんなことか、政権交代から1年半たっても民主党には分っていない。

 政党とはもともと市民社会の側の自発的な集団である。自由民権運動のときも、敗戦後新たに政党を立ち上げるときも、政党は社会における運動体として出発した。しかし、1955年に自由民主党ができ、半世紀もの間権力を担うことによってこの党は変質した。自民党は常に政権党であることを利用して、国家の資金を配分することで支持者を満足させ、政治に意欲を持つ行政官をリクルートし、党としての持続可能性を確保してきた。もちろん、多様な支持団体を持つという点で社会に根を持っていた。しかし、かつての農協や医師会の圧力活動に代表されるように、社会集団のエネルギーは既存の制度の枠内でより多くの利益を求めるという場合に動員された。

 民主党は1998年に当時の非自民勢力の結集によって現在に形になって以来、政権交代を第一義として戦ってきた。自民党の圧倒的な力を前に政権交代を起こすためには、社会の中に支持基盤を広げるという正攻法を取る余裕はなかった。民主党は小選挙区制が作った政党であった。自民党ではなく、特定のイデオロギーも持たない政治家が民主党の屋根の下に集まった。ともかく民主党が持続し、小選挙区における別の選択肢として存在したことによって、自民党が自壊したときに民意の受け皿となりえた。

 しかし、社会に根を持たないままで政権を取ったことで、民主党の統治能力には大きな限界が生じた。小沢幹事長の時代には、自民党と同じく、国家の資源を差配することによって政党としての生命力を獲得しようとした。しかし、これは民主党が否定した手法であり、新政権にはふさわしくないという批判を浴びた。しかも、脱官僚支配というスローガンの下、政権運営や政策立案に関して官僚の助けを借りないという姿勢を売り物にした。

 民主党が官僚に対抗して問題設定を行い、決定や決着を主導するためには、特定の問題について経験を重ね、鋭い問題提起で世論に対してインパクトを及ぼせるような社会団体と提携することが唯一のよりどころとなるはずであった。年越し派遣村の湯浅誠氏を内閣府参与に迎えたり、新しい公共というテーマで市民活動との提携を図ったりしたのはそうした戦略の表れであろう。しかし、政治主導という名の下で政権運営に関する様々な仕事を抱え込みすぎたため、政府に入った政治家は多忙となり、与党と政府との連携関係も政調の廃止によって破壊したため、民主党は社会団体との連携を構築することはできなかった。環境、子育て支援、就労支援など民主党が新機軸として打ち出そうとした政策分野で推進力を生み出すことができないまま、中途半端な政策が実現されたにとどまった。そして、子ども手当てや就労支援に代表されるように、世論はそうした政策転換の意義を理解しないままであった。

 民主党が社会の根を持たないということは、民主党政権の成熟をゆっくり見守ろうという根気のある支持者がいないということを意味する。むしろ、野党時代の民主党と付き合い、環境や子育て支援などの政策についてともに議論してきた市民運動の側には不満や幻滅が鬱積している。本来、最も応援してくれるはずの市民から背を向けられたのでは、民主党政権が長持ちするはずはない。

 もちろん、労組や部落解放同盟などの組織が衰弱した今、日本では社会運動の力は弱い。民主党政権と社会運動の連携といっても実感がわかないであろう。ここで言いたいのは、政策の量よりも質である。野党時代に市民活動ともに準備した議員立法を少しでも具体化し、政権交代によって政策転換を実現したという手ごたえを感じることができれば、政権交代が政治の変化につながる回路ができたであろう。

実際には、普通の人々はマニフェスト選挙で政策を注文した気になり、あとは政権に任せ切りで注文が来るのをいらいらしながら待っている。民主党では、政権に入った政治家は目の前の仕事を処理することで精一杯でものを考える余裕がなく、党に残った政治家は仕事がなくて欲求不満をかこつ。本来、民主党を押し上げて政策実現のパートナーとなるべき社会運動の側も政権の無力を冷ややかに見ている。これが政治空転の構図である。

2 政治は生き残れるのか 

結果から見れば、政権交代を起こしたからこそ、政治への希望が失われた。これから民主政治への希望を取り戻すことは大変困難な課題である。それこそ、悪いシナリオを書こうと思えばいくらでもできる。3月末に予算や予算関連法案が成立しないという事態になれば、政権崩壊もありうる。そうなると、誰が後継首相になっても早期の総選挙は避けられないであろう。しかし、自民党政権の復活を望む世論はないので、人々は投票先を求めてさまようことになる。

予算関連法案について野党からの協力を取り付けることができれば、連立の組み換えにつながるであろう。そうなると一時的に政権は安定するかもしれないが、民意と関係ないところで政権が動くことへの批判、不満が高まるに違いない。

早期の総選挙、連立の組み替えによる一時的安定、どちらにしても二大政党以外の政治勢力の台頭を促すであろう。その場合の第3勢力のイメージとしては、中央政界ではみんなの党、地方では橋下大阪府知事や河村名古屋市長などのイメージが浮かぶ。これらの勢力には共通した特徴がある。既成政治の否定を基調とするのは当然として、公共セクターの仕事に対する不信感を持った都市住民を支持基盤としている。そして、世の中の問題を単純化し、議会や公務員をたたくことによって問題が解決するという幻想を振りまいている。ローマ帝国における民衆支配の道具としてパンとサーカスが用いられたが、現代日本ではパンは減税、サーカスは議員や公務員に対するバッシングである。既成政党のだらしなさが、デマゴーグに道を開くという構図である。

地方レベルのデマゴーグに共通する特徴は、議論の否定である。彼らが唱える減税や自治制度の変更については様々な疑問があり、議会や関係者から批判が出てくるのが当然である。しかし、彼らは自分の政策の中身を改良することよりも、反対する者に対して殲滅戦を挑むことを次なる争点にして、メディアを煽り、人々の支持を取り付けようとする。こうした争点の移行を見ていると、何らかの政策を成就することよりも、政治的武闘あるいは演技にメディアと人々の注目を集め続けること自体が最大目標であることがわかる。

 日本では小泉政権が終わった頃から、社会の持続可能性が大きな危機に直面していることへの関心が高まり、世論も政治家の態度も少しずつ変わってきた。世の中にどの程度の不平等が存在することが許容されるかをめぐっては多少対立もあるが、人口の減少、若年層における家族形成の不全と就労自立の困難、地域社会の高齢化と紐帯の消滅などの現象が社会の持続可能性を脅かすという点では、かなり幅広い合意が存在するであろう。自民党や公明党も与党時代にはそうした社会の危機に対処する構想を準備していた。菅首相の言う税と社会保障の一体改革に与野党が協力するかどうかは不明である。それにしても、いま反対を唱えている野党も政権を取った後を考えるならば、おのずとある種の合意ができるであろう。

 しかし、デマゴーグの政治は日本の現実から人々の目をそらさせ、まじめな政策論議をリセットする。また、人々の憎悪や相互不信を煽り、社会的連帯を不可能にする。政治に責任感を持つ政治家はまだ与野党にたくさんいるであろう。彼らが、自分たちが頓挫した後に出てくるものに思いをいたすならば、今足を引っ張り合っている場合ではないという危機感を持つはずである。ただ、困ったことにデマゴーグの政治はその種の良識をもえさにして肥大化するという点にある。

 政権交代の竜頭蛇尾は、我々にとって貴重な政治の学習材料であった。負け惜しみではなく、心からそう思う。政権選択は、買い物とは違うのである。マニフェストというカタログの通りに政策が実現すると考える方が間違いである。もちろん、政治家はマニフェストの主要な政策を実現する努力を払う義務はあるが、努力したから実現するとは限らないという常識を我々は持つべきである。また、何かを政府に実現して欲しければ、口をあけて待っているのではなく、求めなければならない。政治指導者の質が低いのは、我々の愚かさや優柔不断さの反映である。

 実は、こんなことは丸山真男が50年前以上に書いていた。いわく、「政治にベストを期待するということは、強力な指導者による問題解決の期待につながります。政治というものは、われわれがわれわれの手で一歩一歩実現していくものだというプロセスを中心にして思考していったものでなければ、容易に過度の期待が裏切られて、絶望と幻滅が次にやってくる。」そして彼は政治とは悪さ加減の選択であるという(「政治的判断」丸山真男セレクション、平凡社、369ページ)。

 われわれの手で一歩一歩実現するとはどんな作業か教えてくれと読者は苛立つかもしれない。NGOに参加して政治家と一緒に政策を論議することだけが政治参加ではない。まず他者の言葉を聴くことから参加は始まる。人々が聴く能力を失ったから、デマゴーグはいい加減な言葉を撒き散らす。そして他者を憎悪するように仕向ける。彼らは住民投票のようなある種の直接民主主義を好むが、それは政治参加の不在の証である。まず聴くことによって人は自分の態度や立ち位置について考える。そしてそこから政治参加が始まる。

特に今の大人は、できれば、今の世の中の問題は自分たちの世代が作り出したようなものだから、自分たちで何とか解決の糸口だけでも開かなければという漠然とした覚悟というか責任感を持って、話を聞くべきである。そうすると、明らかなインチキは何となく分るはずである。また、外交問題についても自国の主張をただ繰り返していればよいというものではないということが分るであろう。あるいは安全保障の問題でも、巨大な基地を押し付けられた沖縄の人々が何に対して怒っているのか想像できるようになるであろう。

グローバル化の時代には、何かにつけて速さを要求される。確かに、速く手を打つべき問題も多い。しかし、人口減少を止める、若者の働き口を確保する、女性が働くことを当たり前の社会にする、農業を守るなどといった課題を解決することについて、今日対策を決めて明日から効果を上げるなどということはありえない。私たちが、若者にどのように機会を与えるか、女性の職場の仕事と家庭での仕事をどう支えるか、食料品にどれくらいお金を払うかという、生活の根本部分について考え直すことを経なければ、この種の問題は解決しないのである。そして、生活の根本を考え直すためには時間がかかる。

政権交代以後の政治も試行錯誤を続けているが、これは私たち自身が次の時代に生き延びていくための試行錯誤である。まさに、社会の側が変わらなければ、政治も変わらない。

朝日ジャーナル 知の逆襲第2弾 2011年3月15日


2011.03.10 Thursday 00:00

政党政治の危機をどう乗り越えるか

  はじめに

 政権交代とは、戦後日本を統治してきた自民党と官僚機構が権力と権威を失っただけで、単なる混沌を招来しただけなのだろうか。民主党による政権交代がパンドラの箱を開けたとして、その奥底に希望を見出すことはできるのだろうか。戦後初の民意による政権交代から一年半近く経とうとしている今、我々はこの深刻な問いに取り組むことを余儀なくされている。

 国政を担う二大政党があまりにも無力で、国民の期待を裏切っているために、地方政治では既成の政治の破壊だけを売り物にする怪しげなリーダーが出没している。パンとサーカスで大衆を扇動するポピュリズムに、政党政治が自ら道を開く瀬戸際まで来ている。通常国会では、予算や予算関連法案をめぐって与野党の対決が深刻化し、統治がマヒ状態に陥る可能性もある。様々な危機を見据えて、政党政治の立て直しを論じることが今必要である。

 民主党に対する幻滅が決定的となった今、政党政治と辛抱しながら付き合うという感覚は持ちにくい。しかし、自民党に代わる政権政党を作り出すということは、半世紀がかりの大仕事である。期待が大きかったあまり、民主党政権のすべてを否定するという態度は誤りである。今までの経験を通して学習し、矯正すべき部分と、政権交代の大義に照らして逸脱した現状を厳しく批判するという部分を識別することが必要である。

 同時に、今の民主党政権が実現できること、優先的に実現すべきことをある程度絞り込むという現実的な対処法を取るべきである。内政、外交の両面で、この政権にして欲しいことはたくさんある。そして、沖縄の米軍基地縮小のように、菅政権が本来民主党の進むべき方向からかけ離れているテーマも多い。しかし、政治家に知的な蓄積がない現状で、安全保障政策の転換が進むはずもない。政権が取り組む政策綱領を絞り込み、力を発揮できる領域でその実現を図ることを応援することが必要である。

 菅政権が決定したり、これから推進しようとしたりしている政策には、法人税減税のように、政権交代を支持しなかったものに大きなプレゼントを与えるものがある。見当違いのプレゼントを与える政権を批判することも大事だが、社会の中で不当なプレゼントを要求する人々を批判することも必要である。政権の行動は社会の力関係の反映である以上、社会における力関係を少しでも変える努力をしなければならない。その意味では、政権に対して期待はずれという批判を繰り返していても、効果はない。

 民主党や菅政権に対しては、それこそ文句が山ほどある。しかし、単に支持率が低いというだけでこの政権を倒すならば、政党政治の自壊への道に歩を進めることになる。一年足らずでまたしても政権崩壊ということになれば、国民の政党不信は無限大となる。自民党政権に戻すという選択が魅力的なものでないことも明らかである。その後に出てくるものは、既成政治の否定だけが売り物の新勢力である。政治の世界では、常に悪さ加減の選択が必要である。投機的な政党再編に一縷の期待をつなぐというのは、政治にまじめに取り組む人間のすることではない。

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2011.01.05 Wednesday 20:26

2011年の政治を展望する

1 菅政権と民主党の蹉跌

 2010年は政権交代の意義を国民に知らしめるべく、民主党政権が成果を上げるべき年のはずであった。しかし、2009年末に私が危惧していたことがことごとく現実のものとなり、鳩山政権の崩壊、菅政権の発足と失速という展開をたどった。今後の展開を考えるためにも、その敗因をきちんと分析することは不可欠である。

 まず、政権・与党の運営システムにおける失敗から見てみたい。最大の問題は、政治主導の空転である。民主党は、官僚支配からの脱却、政治主導の実現を強調してきた。しかし、官僚支配にしても、政治主導にしても、その意味を十分考察したうえでの議論ではなかった。

 そもそも官僚支配とは何だろうか。官僚が政治家の前に立ちはだかり、政治家が進めようとする政策を力ずくで阻止するという意味での官僚支配は、日本国憲法のもとではありえない。法律と予算を決定するのは国会だけである。国会議員の多数が一つの意思表示をすれば、官僚がそれを否定することなど不可能である。地方分権や歳出の優先順位の変更など、官僚が自ら進んで取り組もうとしない政策について、政治家が一元的な意思を形成できないから、官僚支配が発生するのである。言い換えれば、与党の政治家がまとまって意思を共有できれば、政治主導、官僚支配の打破は瞬時に実現する。しかし、鳩山政権にとっての沖縄問題のように、民主党は政権の重要課題について統一した意志を持つことはできなかった。

 この点は、民主党が重要な政策理念を共有していなかったという次の問題と密接につながる。そこで、理念の不在という問題を振り返ってみたい。最大の問題は、マニフェストの欠陥にある。英和辞典を引くと、マニフェストという言葉には二つある。本来のmanifestoは、Communist Manifesto(共産党宣言)のそれであり、人々を鼓舞する政治的宣言である。その根底には、理想、思想が存在する。もう一つのmanifestは、積荷目録という意味である。民主党のマニフェストは、積荷目録と言わざるを得ない。結局民主党のマニフェストは、誰から取って誰に与えるかという政治の基本的な姿勢を示すことを回避した、政策項目の羅列であった。

 政治家の指導力の確立にせよ、政策路線の明確化にせよ、重大な選挙こそが好機である。しかし、民主党は参議院選挙、代表選挙という機会を生かすことはできなかった。参院選では菅首相が独断専行で消費税増税路線を打ち出し、国民に拒絶された。また、9月の代表選挙では、「小沢−脱小沢」という不毛な対立構図が前面に出てしまい、以後の政権運営につながる政策論議は行われなかった。

 鳩山首相は稚拙ながらも理想を語っていたが、菅が首相になると、この政権は誰を代表しているのか、さっぱり分らなくなった。その代表例は成長戦略と法人税減税論である。2009年の選挙で政権交代を選んだ国民は法人税減税をしてもらいたくて民主党に入れたのだろうか。菅政権は、民主党を一度も支持したことのない勢力の意向を必死で聞き、民主党に希望を託した人々の声を無視しているのである。その結果、民主党と自民党との対立軸は曖昧となった。菅政権への支持の急速な低下については、外交問題への不手際が直接的な原因となっている。しかし、この政権は誰のために何をするかがわからないという根本的な不信感が広がっているということもできる。

2 通常国会の展開  ねじれ国会のシナリオ

 2011年の政局は冒頭から大混乱が予想される。菅政権は、2010年の臨時国会で補正予算を成立させることさえ、青息吐息であった。通常国会の運営は困難を極めるであろう。予算は衆議院だけで成立させることができるが、関連法案の成立には参議院での可決が不可欠である。特に、赤字国債の根拠となる財政特例法を否決することは、予算を否決することに等しい効果を持つ。

 参議院で過半数を失って以降、民主党は一応国会での熟議を呼びかけている。しかし、臨時国会では野党は政府批判を強め、政策協議の雰囲気はまったく存在しなかった。指導者が侮蔑や嘲笑の対象となり、政権支持率が低下すると、野党はますます政策協議に応じるインセンティブを失う。また、4月に予定されている統一地方選挙で民主党の苦戦が予想されていることも、野党側の抵抗を後押しする材料となるであろう。

 ただし、予算を事実上否決するためには、野党の側に国政の混乱や経済への悪影響を補って余りある大義名分が必要である。自民党は民主党の自滅によって相対的に支持率を高めているが、下野以降本格的な自己改革に取り組んだわけではない。現状では、国民が自民党の政権奪回を待望しているとまでは言えない。政府が提出する来年度予算がどれだけ斬新で国民の期待を喚起できるか、自民党による政府の経済・財政政策への批判がどれだけ的を射たものであるかが、勝負の分かれ目となる。

 201011月、臨時国会の終盤で野党は参議院で仙谷官房長官、馬淵国土交通大臣に対する問責決議を可決した。問責決議は政府与党にとって打撃となるが、野党の側も難しい問題を抱え込む可能性がある。問責を受けた大臣がすんなり辞めれば、野党の勝利となる。しかし、政府がこれを無視し、野党が参院での審議を拒否するならば、与野党の戦いはチキンレースとなる。野党の審議拒否はねじれを解消する手段と政府が開き直れば、野党は振り上げた拳をどう下すかをめぐって悩むことになる。問題は、政府与党がどこまで腹をくくれるか、その時の世論がどちらを支持するかである。

 予算をめぐるチキンレースについても、政府、野党の両方が大きな覚悟を必要とする。最もありうるシナリオは、抜き差しならない対立の前に、公明党の協力を得て予算と関連法案を成立させるというものである。公明党内では民主党への対応をめぐって、野党路線と、事実上協力して取るものを取ろうと考える路線とが対立していると伝えられている。公明党が本当に民主党政権の生殺与奪の権を握るという場面が訪れれば、これまで与党として実利を追求してきた同党が民主党政権を支えることもありうる。

 仮に予算成立については休戦協定ができるとしても、本格的な連立の組み替えに発展するためには、民主党の側でよほど魅力的な政策の提示と様々な工作が必要となる。しかし、発足以来前向きなメッセージを発することのなかった菅政権が追い詰められてから政策論議のイニシアティブを取ると予想することはできない。また、小沢一郎元幹事長が刑事被告人となって政治的影響力を失った今、政治的工作という点でも人材はいない。後で論じる大連立の可能性を仄めかしながら、そうなると公明党の出番がなくなると揺さぶりをかけて、民公連立のプロデュースをするくらいの策士がいれば、連立の組み替えもありうるが、民主党にそのような政治家がいるとも思えない。

 そうなると、予算を乗り切ったとしても、菅政権は推進力を欠いたまま漂流を続けるということになるのであろう。政権が行き詰まって解散というシナリオもあり得るが、菅政権にそれだけの政治力が存在するかどうか、不明である。民主党が衆議院で多数を確保するためには、自民党の選挙準備が整っていない段階で早期解散に打って出ることが必要だが、今の指導部にそこまでの覚悟はないであろう。

3 大連立か再編か

 通常国会がデッドロックに陥り、政策が何も実現しないという状態が続けば、メディアや経済界からは国難を救うために大連立、挙国一致を求める声も出てくるであろう。200711月に小沢一郎を使嗾して大連立を画策した老人たちは今も元気である。

大連立は政権交代の意義を否定するものである。しかし、民主党が政権交代によって与えられた国民の負託を生かせず、政策転換を実現できないままであれば、大連立によって権力の空白を避けることを世論が要求するようになるであろう。

大連立は翼賛体制にもつながるもので、通常の民主政治ではありえない選択肢である。しかし、国論の分裂を避けるべきテーマについての議論が深まり、大連立政権の課題が限定的に具体化されるならば、それはあくまで一時的、過渡的な選択肢として是認されるかもしれない。

そのようなテーマとしては、消費税率引き上げを中心とする増税と財政規律の回復、東アジアの緊張に対処するための日米安保体制の強化と沖縄基地問題の解決といったものが考えられる。とはいえ、沖縄では201011月の知事選挙でも、辺野古への基地建設については明確な反対の民意が形成されている。大連立による政策決定は、地域を無視した多数の専制に陥る危険が大きい。

財政の健全化は予算編成に直結する話なので、基地問題よりも合意形成ができやすいかもしれない。税収不足で予算編成も難航を極めるという状況の中では、緊急避難的に消費税率を引き上げることについては民主党と自民党で合意を形成することは可能であろう。だが、政策による再分配のあり方、社会保障をどの程度まで整備するかといった課題については、政党間の距離は大きい。

大連立によって懸案を一掃するというのは幻想である。統治能力の欠如ゆえに国民から厳しい批判を浴びた二大政党が権力の空白を回避するためにとりあえず共同で権力を担うという程度の話である。仮に大連立があるとしても、次の国政選挙で国民の審判を受け、政権の軸となる政党を決めるというのが当然の流れとなる。

民主党が自民党ではないという消去法のアイデンティティしか持てず、政権を獲得しても基本的な政策目標を共有できないまま漂流したという現実は、二大政党制なるもの、あるいは日本における政党そのものへの疑念を生み出す。自民党政治を否定することが実現した今、非自民という看板には意味がなくなる。今までも政党再編への漠然とした期待は伏流していたが、民主党の頓挫は再編願望を高める契機となるであろう。

気分としては、政策理念を共有する政治家が結集して、まとまりと突破力のある政党を造れと言いたい所である。しかし、1990年代の政党再編ブームと比べると、今は再編の機運がまだ盛り上がっていないように思える。その理由としては、まず選挙制度が挙げられる。かつての中選挙区制の下であれば、新規参入のハードルも低く政治家は比較的自由に動くことができた。しかし、小選挙区制は政党再編には向かない制度である。また、20年前は自民党、社会党という既成政党の重みが今とは比べ物にならないくらい大きく、新しい政党を造る動きに身を投じる政治家は、維新の志士のような気分になれた。舛添、与謝野といった政治家が作った新党の存在が霞んでいるのも、自民党自体が没落したからそれを否定してもインパクトがないという理由によるのであろう。

既成政党に対する不満、不信が高まる中、20年前の再編ブームの時と比べて、政治家は自らの理念を語ることが少なくなった。岡田克也、野田佳彦といった民主党の次の首相候補も、政権交代や二大政党制の必要性についてはまじめに語るが、自分が権力を取った時にどのような社会を作るかというビジョンについては、具体的に語ることはなかった。それは自民党の指導者も同じである。谷垣禎一は本来宏池会の末裔であり、穏健保守に属するはずだが、自民党内右派の声高な政府批判を放置している。

結局、現在の政治的閉塞状況を打破するためには、政治家もメディアも、政権交代(自民党にとっては政権奪還)をそれ自体として目標とする発想から訣別することが第一歩となる。そして、家族、雇用、社会保障などのありようを具体的に語る社会経済モデル、外交路線についてそれぞれの言葉で議論することが必要である。政権交代から13ヵ月たった時点での総括としてはあまりに貧相な結論だが、あなたは何をしたいのかと国民に問われて指導者がすぐに答えられるようでなければ、政治の迷走は続くのである。(TBS調査情報、2011年1/2月号)


2010.09.21 Tuesday 20:16

菅直人は政権交代の大義を実現できるか

1 政権交代は何のためだったのか 

 鳩山由起夫が小沢一郎幹事長を道連れに首相の座を退き、菅直人が首相になったことで世論は一変した観がある。しかし、表紙を付け替えて政権の維持を図るなどという自民党流の政治手法を民主党が模倣するなら、菅政権の未来はない。ここで改めて、政権交代によって何を変えるべきなのか、確認しておきたい。

民主党政権が本来目指すべき理念は、三つのポストによって表現することが可能であった。第一は、ポスト冷戦である。その中身は、アメリカの一極主義的な軍事行動への追随を見直し、アジアにおいて平和を作り出すという方向性である。鳩山政権は、核軍縮への積極的な姿勢、東アジア共同体構想、普天間基地の海外移転など、この方向のアジェンダを打ち出した。

 第二は、ポスト物質主義である。その中身は、成長の限界を踏まえ、持続可能性を鍵に経済のパラダイムを組み換えることである。鳩山首相は温室効果ガスの25%削減を打ち出し、この方向に踏み出すことを公約した。

 第三は、ポスト権威主義である。その中身は、市民の能動性を強化し、開放的な多文化社会を作ることである。民主党は、これまで夫婦別姓や市民活動の支援などを唱えてきた。

  政治学の世界では、「中位投票者の仮説」というのがある。左右の軸において世論が正規分布していることを前提に、小選挙区において政党・候補者は、最大多数を占める中間的な投票者の選好に接近し、政党間の差異がなくなるという仮説である。この仮説は十年ごとに政権交代を起こすヨーロッパの政治社会には当てはまるのかも知れない。しかし、日本において自民党政権を倒すことはレジームの転換であり、政権交代を訴える民主党は自民党には絶対できない政策を掲げることとなった。その意味では、民主党が重要視する政策には、鋭い党派的対立を惹起するものが含まれていたのである。

2 鳩山政権はなぜ崩壊したのか

 鳩山政権の崩壊は、党派的対立の中で自説を貫くことができなかったことに起因する。沖縄基地問題に限らず、内政上の目玉政策である子ども手当や農家戸別所得保障にしても、明確な理念や価値観がないから「ばらまき」という批判の前に画期的な政策転換の意義を国民に伝えることができなかった。

 これは、鳩山前首相の個人的な要因にも由来している。しかし、民主党や内閣全体として、理念や政策の方向性を共有していなかったことも、政権崩壊の原因であった。民主党は敢えて理念やイデオロギーに関わる論争を回避し、党の結束を回避してきたからこそ政権を獲得できたという過去の経緯は重たい足かせである。小沢一郎前幹事長が代表だった時期、政権交代という大目標のために路線論争を棚上げにする小沢流リアリズムを私自身も支持した。

 しかし、鳩山政権の惨めな崩壊は、実際に政権を取った時に各論レベルの政策実現だけでは政権を維持することはできないというもう一つの現実を物語っている。ここで必要なのは、政権を維持するための動力を調達するための理念論争の仕方を開発するということである。理念や路線といっても、かつてのようなイデオロギー論争をしろと言っているのではない。「国民の生活が第一」という政権交代のスローガンを、実行可能な政策に具体化するための基本的な考え方を整理すべきだと言いたいのである。この点は、菅政権にとっての重たい課題である。

 鳩山政権が残したもう一つの教訓は、政権交代の大義を尊重することである。鳩山政権は、いわば二つの政権交代の間で引き裂かれたということができる。一つの政権交代は、政治システム自体の刷新である。もう一つの政権交代は、自民党が半世紀かけて築いてきた権力構造は温存し、それを乗っ取るという交代である。前者の政権交代については、情報公開、事業仕分けなどである程度の成果を上げることができた。従来、会員制クラブであった政策決定過程のドアを開放し、たとえば湯浅誠氏を政策参与に起用して貧困失業対策を進めるといった画期的な変化も起こった。しかし、後者の政権交代も目立った。特に、小沢前幹事長の下で、陳情が一元化され、公共事業補助金の箇所づけが民主党の地方組織を通して地方自治体に伝達されたことは、利権配分政治が健在であることを国民に印象づけた。また、参議院選挙の比例代表候補に、人寄せパンダのようなタレント、スポーツ選手を擁立したことも、心ある有権者を失望させた。

 鳩山前首相自身は、もちろん政治システムの刷新を志向していたはずであるが、民主党全体としてそのような方向を共有していなかった。当面の参議院選挙で勝つことを至上命題とするあまり、利益誘導やタレントの擁立など、自民党と同じような手法を大規模に駆使したことで、政権交代の意義は薄れ、民主党に対する期待は大幅に低下した。

3 菅政権の課題

 このような教訓から、菅政権が取り組むべき課題は自ずと明らかとなる。政策理念と政権運営の両面に渡って、鳩山政権の失敗を糧として、政権交代の大義に立ち戻ることこそ、政権が持続するための大前提となる。

 理念の共有と政権運営システムの修正は結びついている。菅首相は政策調査会の復活を指示した。与党の政治家のエネルギーを引き出し、真の政治主導を実現するためには政調は必要である。菅首相の言う強い社会保障を支えるための強い財政のあり方について、中期的な視点から構想を練ること、それを国民に訴えるための理念やビジョンを打ち出すことに、民主党の政治家が努力を傾注すべきである。そうした議論を行う場こそ、政調である。日本が目指すべき社会のイメージについて議論を重ね、それに対して国民はどのような形で参加、貢献すべきか、政治家自身が訴えかけなければならない。

 特に、税制改革、消費税率の引き上げについて、菅政権および民主党の首脳は議論を始めるべきだと主張し始めた。この点で責任ある態度を示すことこそ、前政権との違いを打ち出すテーマとなる。各種世論調査にも示されるように、国民は税や社会保険料の負担に対して、頭から受け容れないという頑なな態度を取っているわけではない。頑ななのは、社民党など一部の革新勢力である。人間の尊厳が尊重される社会のイメージをまず示し、それを実現するための財源が必要だという順序で議論を進めるならば、強い財政と強い社会保障は実現可能である。

 最後に、社民党の役割について、一言触れておきたい。社民党は政権を離脱したが、一時の自己満足のために大局的判断を誤ったと言わざるを得ない。参議院で与党が過半数を維持し、強い社会保障に向けた政策を推進するには、社民党の力も必要である。仮に、社民党の代わりに、みんなの党が連立の一翼に加わるという事態にでもなれば、政権の軸は右に動き、新自由主義の再来となる。丸山真男が言ったように、政治とは所詮「悪さ加減」の選択である。今の日本の政治状況に鑑みると、菅政権は社会民主主義に最も近い布陣である。この政権の下で政策的成果を上げることに、より多くの勢力が結集することが必要である。(自治研究7月号)


2010.09.19 Sunday 00:09

柄谷行人 世界史の構造

 著者はこの本について、「生涯で初めての理論的体系」と位置づけている。『世界共和国へ』(岩波新書)で提示された理念を、考古学、歴史学、哲学、精神分析など様々な学問の成果を用いて補強しながら展開した、まさに哲学の体系である。ただ、評者にとってはそれ以前に、哲学者が書いた面白い世界史という点に本書の最大の意義がある。

高校時代に世界史を勉強して以来、歴史にはこういうものという自明の前提がたくさんあって、なぜという素朴な疑問は封印されてきた。本書を読むと、農耕革命の起源から始まって、普遍宗教と帝国の関係、中国において巨大な版図の帝国が王朝の交代にもかかわらず維持されてきた理由、そして二〇世紀においてロシアと中国で国家の形成のためにマルクス主義が必要とされた理由に至るまで、腑に落ちた。世界あるいは人類の歴史が、時間、空間を超えた大きな連関の中で展開してきたことが見事に描かれている。まさに、本書は人類史の大パノラマである。

その体系性の根底には、交換様式から歴史を説明するという著者独自の発想がある。自己充足できないという人間の本性から出発して、ここまでのマクロな歴史像を描く構想力には感嘆するしかない。(図書新聞9月18日)

 今日、高度に発達した資本主義が逆に人間の尊厳ある生を破壊していることは明らかである。そのことの原因を遡ると、著者は明示的に論じていないが、世界史を規定する重要な二つの要素、交通と定住の矛盾に行き着くように思える。交通とは、人間と自然の間、人間と人間の間におけるものや情報などのやりとり、交換である。本書で述べているように、人類の歴史は交通の拡大の歴史であった。グローバルな金融資本主義において、コンピュータネットワークを通して巨大なマネーが行き交う姿は、交通が最も高度に発展したことの表れであろう。

 他方、著者は定住革命を人類史の大きな転機と見ている。人が本来定住するものだという見方は偏見であると著者は言う。遊牧民のような移動生活に比べて、定住生活は人間間の葛藤や死者の処理など、大きな困難を伴う。しかし、気候変動という環境変化に伴って人間は食料を確保するために定住を始めた。そして、定住することによって農耕・牧畜を始めた。定住は、富の蓄積をもたらすとともに、社会の秩序の維持や富の不平等を回避するという新しい課題を人間にもたらした。そうした課題を原初的平等という原理に照らして処理するために、人間は氏族社会を形成し、互酬原理によって階級社会や国家を拒むシステムを作り出したと著者は述べる。定住を開始した初期において人間は互いに尊重しあう平等な社会を造り出したことを、著者は高く評価している。

 しかし、そのような原初共同体は歴史には残っていない。それは、交通の発達に共同体の原理が耐えきれなくなったからだというのが、著者の考えであろう。一方で、交通の発達は、人間が豊かで尊厳ある生を送るためには必然の現象である。しかし、経済成長がその象徴であるように、交通の発達はいつしか自己目的になり、人間はそれに巻き込まれる。ヒンズー神話に由来するジャガーノートは制御できない交通の比喩である。

 だからこそ、新たな交換様式に基づく連帯社会を構築するためには、定住の回復が鍵になると評者は考える。そして、その点と関連して、アメリカという国の成り立ちを考えることが、交通の自己運動に伴う害悪と、それを乗り越える変革の道筋を考えるために重要な手がかりになると思う。

 繰り返すが、氏族社会は先史時代にのみ存在した。歴史時代に入ると支配と不平等を内包する国家が政治統合体となった。しかし、一七、八世紀に北米大陸にヨーロッパ人が移住した時、自由で互恵的な共同体を作る歴史上唯一の機会が存在した。彼らはイギリスの圧政から逃れ、北米に移住・開拓(settle)した。セツルという言葉は、まさに定住するという意味も含んでいる。しかも、同じ場所には先史時代以来の共同体を持続してきたイロコイ族などの先住民が生きていた。

 しかし、国家は他の国家との関係において存在するという著者の説明の通り、アメリカはイギリスから軍事力を使って独立することによって国家となった。更に、一九世紀以降は、セツルという言葉から定住するという要素が抜け落ち、もっぱら未開の広野を開拓することが国家拡大の原動力となった。開拓、開発は、人間と自然の関係を《我−汝》ではなく、《我−それ》の関係に還元してしまう。まさに、そのような一方向的な発想のもとに交通を拡大することがアメリカの国是(manifest destiny)となり、二〇世紀には世界帝国となった。二一世紀において交通の拡大は、グローバリズムという名の普遍宗教となり、人間をますます追い立てている。

ここで、国家、市場への対抗を考える際、他ならぬアメリカの経験を遡ることが手がかりになるはずである。たとえば、建国の過程では、連邦主義(federalism)をめぐる論争があり、伝統的な集権国家とは異なる統治体制の構想も存在した。連邦という概念はカントにおいても重要な鍵であり、この点の考究は今後の課題となる。

少し具体的にこの課題について考える時も、現代における定住とは何かを考えることが有益だと思う。日本でも工場の移動、地場産業や農業の衰退などによって、人間は交通の拡大に隷属するようになった。定住のイメージを膨らませることこそ、人間と自然の関係を修復し、市場に隷属しない生き方を構想するために不可欠であろう。

本書の最終部では、世界共和国への展望が語られている。そこでの突破口は、消費者としての行動である。この点については、著者の楽観に不満を感じた。労働者が自ら作る製品を購入しなければ資本制経済は拡大しないという議論は、二〇世紀的フォーディズムの枠内のものではないか。今や先進国では消費生活は飽和状態に達し、金の使い道はサービスに移行している。また、製造業は中国やインドなどの巨大市場を目指して競争している。労働者の消費者としての優位性は、二一世紀に入って著しく低下している。

さらに重要な問題がある。消費者とは、実体概念ではなく、あくまで関係概念である。我々が労働力を資本に売る時、消費者としての優位性は資本の側が発揮する。しかも、その優位性の背後には、ものやサービスを享受する消費者が発する低価格や便利さに対する無限の欲求が存在する。日本でもこの十数年の間、消費者優先の政治というスローガンこそ、ユニクロ型デフレや労働の値崩れをもたらした。

 消費を考え直すということは、生活を考え直すということである。利便性や安さを求める生活態度はそれこそ資本制経済に毒されたものであろう。資本制経済が自然との関係(環境制約)において、またフロンティアの消滅(中国やインドの市場への包摂)という事態において、歴史的な限界に直面している今、生活の中身を再構築することが社会理論の根本課題となるであろう。リーマン・ショックを経て、労働者も高齢者も貨幣への偏愛を一層強め、それが資本制経済の行き詰まりを一層悪化させ、政策の展開を困難にしている。いささか余談だが、かつて革命を夢見て暴れた現在の引退層こそ、貨幣への偏愛を振り捨て、新たな生活のパラダイムを切り開くべきだと思う。

最後に、個人的な読後感を記しておきたい。政治の変革を念じて議論を重ねてきたものの、政権交代以後の混迷に辟易していた評者にとって、この時期に本書を読むことができたのは大変な幸運であった。資本=国家=ネーションの頑強さは危機においてこそ現れる。日本における政権交代も、そうしたシステムの危機への対応の一つの現れに過ぎないと位置づけるならば、この政治変動にどの程度の期待ができるかも、冷静に考えることができる。柄谷氏の思索に触れ、どれだけ長い時間軸でものを考えることができるかに知識人の質が表れるということを痛感した。


2010.08.06 Friday 00:32

政権交代をなぜ生かせなかったのか―――民主党における「失敗」の考察

はじめに

 二〇〇九年九月の政権交代が日本の政治史の中で画期的な意味を持つことは、どれだけ強調しても、誇張にはならないであろう。政権交代によって始めて可能になった情報公開、政策転換もいくつか達成された。社会福祉政策の拡充、事業仕分けによる官僚の既得権への切り込みなどは、自民党政権では思いつかれもしなかったろう。これらの政策や改革の意義はきわめて大きいことを、ここで改めて確認しておきたい。鳩山政権がどんなに落ち目になっても、政権交代は日本政治にとって画期的な意味を持っていた。

もちろん、鳩山政権のリーダーシップの弱さ、政治家たちの脆さ、政権運営をめぐる戦略の欠如などによって、千載一遇の好機を逃したという悔いは大きい。しかし、今必要なことは、政権の欠陥やリーダーの質の悪さをいたずらに嘆くことではない。この政権交代が何を目指すべきであったのかをもう一度確認したうえで、本来の目的を達成できなかった理由を厳しく究明することこそ、政治学者の任務である。

 政権交代可能な政党政治の確立は、日本政治にとって百年単位のプロジェクトである。最初の政権交代に試行錯誤はつきものである。重要なことは、錯誤を自ら認識し、これを修正することができるかどうかである。鳩山政権という一つの政権の命運や帰趨を超えて、政権交代にともなう政策転換をいかに進めるかを、失敗に基づいて批判的に総括することこそが、現下の急務である。最初の民主党ができてから一五年間にわたってこの党を軸とする政権交代を説いてきた者にとって、鳩山政権の敗因を論じることは大変辛い作業である。しかし、そのことなしに日本の政党政治の深化はありえない。本稿では政権交代とは何であるべきだったのか、改めていかにしてそれを実現するかについて、考えてみたい。

 


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