2015.08.28 Friday 14:41

戦後70年のデモクラシー

 安倍晋三首相は、政権復帰以来の株価と支持率の上昇に支えられ、無人の野を行くがごとく、政策目標を実現してきた。しかし、安保法制に対する反対論が高まるなかで戦後70年の終戦の日を迎え、様々な制約の中で政権を運営させられていることを実感しているに違いない。


 1つの制約は、国際世論である。当初、安倍首相は自らの歴史観を盛り込んだ戦後70年談話を出すことに強い意欲を示していた。しかし、侵略や植民地支配を否定する右派的な歴史観は、アジアのみならず欧米からも受け入れられないことは明らかであった。日本が国際社会の中で生きて行くためには、首相が唯我独尊の歴史観を公表してはならない。安倍談話は首相個人の思いからはかけ離れたものとなり、長々しい文章のゆえにメッセージ性は薄くなった。


 首相は日本の次の世代に戦争について謝罪し続ける宿命を負わせたくないと、首相らしい表現を使った。侵略や女性の権利などに言及したことへの悔しさをここで晴らそうとしたのだろう。首相やその取り巻きの右派政治家が侵略を否定し、植民地支配を正当化する限り、次の世代の日本人はアジアの国民に謝罪を続けざるを得ない。この構図を首相は理解しているのだろうか。


 もう1つの、そしてより大きな制約は民意である。日本が民主主義国である以上、為政者が民意に制約されるのは当たり前である。今まで高い支持率の上におごってやりたい放題をしてきたことの方が異常であった。安倍政権が推進する安保法制はきわめて不出来な代物であり、国会審議における政府答弁は破綻している。首相は、衆議院の審議では集団的自衛権の行使の事例としてホルムズ海峡の機雷除去をあげていたが、それが荒唐無稽であることが明らかになると、参議院の審議では中国の脅威を強調し始めた。安保法制は日本の安全を確保するための手段ではなく、それ自体が目標である。日本社会や国民生活にかかわる実体的課題を後回しにして安保法制に狂奔する安倍政権には、国民の存在は目に入っていないようである。


 私は昨年71日の、集団的自衛権行使を正当化する閣議決定を前に、政治学や憲法学の研究者とともに立憲主義を擁護するための運動、立憲デモクラシーの会を結成した。戦後日本に定着した憲法9条の運用を安倍政権が閣議決定で変更することは、憲法による政治権力の制約という立憲主義を破棄するものだという危機感を持って運動をしてきた。今年の6月以降の世論の変化は、正直なところ想像を超えたものである。


 衆議院憲法審査会で3人の憲法学者が安保法制について憲法違反だと断言したことから、安保法制について異論を唱えたり反対したりすることは正しいのだという解放感が、メディアや関心を持つ市民の意間に広がった。66日に立憲デモクラシーの会が東京大学法学部の教室で、憲法学の泰斗、佐藤幸治京都大学名誉教授、樋口陽一東京大学名誉教授と石川健司東京大学教授による講演とシンポジウムを開催したところ、会場には教室の定員の倍を超える千五百人以上の市民が詰めかけた。会場の雰囲気は異様と言ってよいものであった。安保法制という道具が日本政治の土台を突き崩すのではないかという憂いが充満していたと私は思った。佐藤氏は直接安保法制には言及しなかったが、人類、そして日本人が苦闘の末に確立した立憲政治を今覆すことは許されないと、熱を込めて説いた。なお、この時の佐藤講演は『世界史の中の日本国憲法』(左右社)として刊行されている。


 立憲主義という言葉は、戦前の日本では藩閥や官僚による支配に対抗して、政党勢力が使ったシンボルであり、人口に膾炙した。しかし、権力の暴走を防ぐという消極的なメージで、民主主義よりも後退している感覚があり、戦後民主主義の中では、しばらく忘れられていた。今回の安保法制をめぐる議論を契機に、立憲主義という言葉が流布している。この20年ほど、我々は十全な民主主義を目指して試行錯誤を続けたが、自民党以外に政権の担い手がいないという身もふたもない現実を再発見しただけであった。しかも、その自民党はかつての幅広さや慎重さを失い、議員経験も浅い、ネトウヨと見まがう政治家が跳梁跋扈している。そして、憲法違反と言われる法案を無理押ししようとしている。


 こうなると、政権交代可能な民主政治などという贅沢を言わず、政治権力を一定の枠の中に収めるという立憲主義というレベルで歯止めをかける必要がある。安保法制に反対を叫ぶ市民の頭の中がこのように整理されているわけではないが、政治の暴走を止めるという課題には、市民の素朴な共感を得られるだろう。


 立憲民主主義を守るという運動を開始した者にとって、運動の広がりはうれしいことである。しかし、ある種の先取りした挫折感も覚える。何かの僥倖で安保法制の成立を阻止できたとしても、自民党が心を入れ替えるわけはない。安倍の次をにらんでいる候補者の中には、安倍と同類かもっと右寄りの政治家もいる。野党の支持は広がっているわけではなく、政権交代によって自民党政治に歯止めをかけることに期待が高まっているわけでもない。


 立憲主義の運動が、おごれる権力者に対するモグラ叩きになれば、運動する側も疲弊して長続きはしない。憲法を無視する権力者は選挙で国民に厳しく罰せられるという慣行を作り出す必要があるのだが、それには自民党に取って代わる政治主体を作り出さなければならない。3年前に民主党が下野して以来、同じことを言い続けていることには疲れを覚えるばかりであるが、やはり言い続けなければならない。憲法と平和を守れと動いている市民のエネルギーを受け止めるために、野党は重要な政策課題にかんする最小限綱領を作って、受け皿を作るべきである。来年の参議院選挙こそ、立憲民主政治の存続が問われる場面となる。


週刊東洋経済8月29日号


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