2015.07.13 Monday 12:56

安保法制に関する反対意見

 

安保法制に関する反対意見

                          山口二郎


1 戦後70年の中に安保法制を位置づける

 今年は戦後70年の節目の年であり、日本の来し方行く末を考える重要な機会なので、まず安保法制を戦後日本の歩みの中に位置づけ、その意味を考えてみたい。

 戦後日本の国の形が大きく変化した契機は、1960年のいわゆる安保騒動、あるいは闘争であった。当時の岸信介首相は憲法、特に9条を改正して国軍を持つことを宿願としていた。そのための第1歩として、安保条約の改定を図った。これに対して、空前の規模の抗議活動が起こり、数十万の市民が国会や首相官邸を取り巻いた。当時の人々が新安保条約を理解していたかどうかはともかく、人々は岸首相が体現する戦前回帰、戦後民主主義の否定という価値観に反発して未曽有の運動が起きた。安保条約自体は衆議院の可決により承認されたが、岸首相は退陣を余儀なくされた。

 自民党はこの騒動から重要な教訓を学び取った。憲法と戦後民主主義に対する国民の愛着は強いものであり、それを争点化することは大きなリスクを伴うという教訓である。岸の後を襲った池田勇人首相は、憲法改正を棚上げし、経済成長によって国民を統合する道を選択した。この路線は以後の自民党政権にも継承された。安全保障政策においても、憲法9条を前提とし、これと自衛隊や日米安保条約を整合的に関係づける論理が構築された。それが専守防衛という日本的平和国家路線であった。憲法9条の下で日本は自国を守るためだけに必要最小限の自衛力を持つという原理が確立した。海外派兵はしない、集団的自衛権を行使しないという原則は、そこから必然的に導き出されるものである。

 1960年代以降の自民党政権は、この原理を定着させ、軍事力の行使について謙抑的な姿勢を貫いた。まさに戦後レジームはほかならぬ自民党が作り出した体制であり、そのもとで日本は平和と繁栄を享受したのである。

 今回の安保法制に関連して、日本が他国の戦争に巻き込まれる恐れがあるという議論がある。戦後日本が戦争に巻き込まれずに済んだのはなぜか。それは、緊密な日米同盟のおかげではなく、日米安保条約の下、日本が集団的自衛権の行使を禁止していたからであった。この点は、1960年代末のベトナム戦争への対応をめぐる日本と韓国の違いを見れば明らかである。韓国は米韓相互防衛条約の下、アメリカにベトナムへの出兵を求められ、韓国軍はベトナムで殺し、殺されるという悲惨な経験をした。集団的自衛権の行使を否定した日本はベトナムへの派兵など、全く考慮する必要はなかった。1960年代の安保闘争で、市民が岸政権を退陣に追い込み、憲法9条の改正を阻止したことで、日本は戦争に巻き込まれずに済んだのである。

 20世紀後半に効果を発揮した日本的平和路線は、21世紀にも有効かどうかがいま問われている。確かに、この20年間の国際環境の変化は大きい。中国の経済発展と軍事力の拡大、北朝鮮の核開発など、日本に隣接する地域での不安定性は増加している。日本は自らの安全を確保するために、集団的自衛権の行使に転換する必要があるのだろうか。答えはノーであると私は考える。

 日本の領域を守ることは、個別的自衛権によって対処すべき課題である。この点を、安倍首相自身が「国民の理解を得るため」と称して76日に行ったインターネット番組で使われた表現を検討することで、この点を考えてみたい。首相は次のように述べた。

「一般の家庭でも戸締りをしっかりしていれば泥棒や強盗が入らない。また、その地域や町内会でお互いに協力しあって、隣の家に泥棒が入ったのがわかったらすぐに警察に通報する。そういう助け合いがちゃんとできている町内は犯罪が少ない。これが抑止力なんですね。」

 この点で、私は珍しく安倍首相と意見が一致する。国を家に例えるなら、戸締りをしっかりするのが自衛力整備である。だが、門の外まで出張っていって、悪者退治に加わることは自宅の安全に資する行為ではない。また、近隣の人々と協力し合うことは、地域の安全にとって極めて重要である。日本が協力し合う近隣とは、アメリカも含まれるだろうが、韓国、中国を抜きに、町内会は構成できないはずである。自衛力を整備しつつ、隣家との利害の違いは認識したうえで、隣家との共存のために話し合いをすることこそ、自宅の安全を高める道ではないのか。安倍首相のインターネットでの演説は、集団的自衛権の行使の理由を説明するものではなく、全く逆に、専守防衛と地域的協力が必要な理由を説明するものである。首相自身に、自分が何を実現したいのか、冷静に認識していただきたい。

 安保法制を推進する政府与党は、日本が集団的自衛権を行使することによって日米の同盟関係が一層緊密化し、抑止力が高まると期待している。しかし、これは希望的観測というものである。アメリカは日米安全保障条約第5条が定めるとおり、「自国の憲法上の規定及び手続きに従って」条約上の義務を果たすにとどまる。アメリカが大規模な軍事力の行使を行う際、憲法により、議会の承認が必要とされている。アメリカが中国との武力紛争を望んでいないことは明らかである。尖閣諸島の問題についても、アメリカは日本の施政権の保有は支持するが、領有権にはコミットはしていない。アメリカは常に、日中間の領土紛争は平和的に解決することを求めていることを忘れてはならない。

米中関係自体が決してうまくっているわけではない両国は戦争は何としても避けるという前提で、粘り強く対話しようとしている。それに引き替え、日本は中国との対話や相互理解はそっちのけで、自国が武力行使をする可能性を拡大すればより安全になると主張しているのは、政治的に稚拙である。

 

2 安全保障法制の内在的問題点

 次に、安全保障法制が抱える問題点について、考えてみたい。そもそもこの法案は、専守防衛を逸脱するものであり、憲法違反である。それに加えて、特に憂慮すべき点を指摘したい

 第1は、武力行使が可能となる状況の規定である。法案では、存立危機事態、重要影響事態という新しい概念が提示され、それぞれにおいて日本が集団的自衛権を行使できるとされている。しかし、国会審議においても、2つの事態の意味が明確に定義されることはなかった。状況がどの事態に該当するかを判断する際の考慮事項は例示されたが、実際の判断は政府が「総合的」に決めるという答弁しかなかった。これでは、存立危機事態も重要影響事態も、武力行使を制約する縛りにはなりえない。政府は集団的自衛権の行使に当たって、大きな裁量を手にすることになる。日本が他国の戦争に巻き込まれる危険性が高まるという批判は、この点を捉えている。

 また、自衛隊による後方支援活動について、それを行える場所と行えない場所の線引きはなくなった。従来は、戦闘地域と非戦闘地域という一応の概念的区別が存在した。この区別は、現場の指揮官が、他国軍隊の武力行使と一体化するおそれについてその都度判断することの困難を踏まえ、余裕をもって一律の判断ができるための配慮として設けられたものであった。今回の法制で、現に戦闘が行われていない地域において自衛隊は他国軍に対して後方支援が行えるとされている。自衛隊が行うと想定されている武器弾薬の提供や燃料の供給は武力行使と一体の行為である。この点で後方支援活動は憲法違反である。

第2は、あまりに空想的な希望的観測の上に法制が構築されている点である。重要影響事態における後方支援活動について、現に戦闘が始まったら撤収するから危険ではないと説明されている。これほど荒唐無稽な空論はない。現に戦闘が行われていない地域であっても、いつ何時本格的な戦闘が行われるかわからない。古来、戦争において糧道を断つことは戦術の常識であった。自衛隊が同盟軍に武器、燃料等の補給を行えば、相手方にとって自衛隊は敵軍である。当然、補給を断つ攻撃を仕掛けてくることは明らかである。後方支援の本質は兵站である。後方支援だから危険ではないなどという言い分は、日本政府が国民に気休めを与えるための机上の空論である。

後方支援であれ、他国の武力行使に一体化することは、戦争への参加を意味する。このことは、自衛隊員の危険を高める。また、日本国内に生活する国民の危険をも高める。アメリカによるイラク戦争に参戦したイギリス、スペインで、大規模なテロが発生し、多くの市民が犠牲になったことを忘れてはならない。私はテロを正当化したいのではない。戦争に参加する以上、相手方からの様々な攻撃を受ける危険があるという現実を、包み隠さず自衛隊員と国民に告知することが指導者の責務だと言いたいのである。

 

3 安保法制を契機とする民主主義の腐食

 今回の安保法制の議論を契機に、日本政治の劣化と、民主主義原理の浸食が明らかになっている。

 まず、安倍首相は野党の質問に対して、自分は総理大臣だから正しいとか、合憲・安全だと確信していると答え、それ以上議論を深めようとしていない。中世のヨーロッパ人は太陽が地球の周りを回っていると信じていた。確信の強さは、信じている事柄の正しさとは無関係である。根拠と論理を示して説明することが為政者の義務であるが、国会審議は空洞化している。

 また、自民党の高村正彦副総裁は、3人の憲法学者が衆議院の憲法審査会で安保法制を違憲と断じたことに反発し、憲法学者は憲法の字面にこだわるとか、学者の言うとおりにして平和が守れるかと述べた。学者の端くれとしてこれには断固として反論しておきたい。

 そもそも憲法学者が憲法の文言にこだわるのは当然である。それは、数学者が1+1=2という数式にこだわるのと同じである。高村氏の発言は、政治権力は論理をねじ曲げることもあるという含意を持っている。氏は1+1が為政者の意向次第で3にも4にもなるような独裁国家を作りたいのかという疑問を抱く。今年は戦後70年であり、天皇機関説事件から80年である。権力が学問を弾圧してから敗戦で国が滅びるまでわずか10年だったという事実を思い起こすべきである。私は、学者の言う通りにすれば国が平和になるとおごったことを言うつもりはない。逆に、政治家の言うとおりにして国が愚かな戦争に突入した経験もある。戦後日本を振り返れば、政治家と学者が異なった観点から議論をし、それらの議論が正反合の関係で日本的平和国家の路線を作り出したという成功体験があることをかみしめるべきではないか。

 先般の自民党文化芸術懇話会における沖縄差別や報道機関統制の発言は、自民党という偉大な政権政党の変質を物語る。あの会合で気勢を上げた政治家に共通するのは、実証性、客観性を無視して、自分の欲するように世界を解釈するという反知性主義の態度である。あの事件が発覚した直後、政府与党の首脳は、同懇話会に参加した政治家にも発言の自由があると擁護した。したがって、同懇話会の反知性主義は局部的現象ではない。

 国の安全を最後に担保するのは、冷静な状況認識と現実感覚を持った政治指導者である。政治家に反知性主義が蔓延する現状において、安保法制が成立し、日本が集団的自衛権を行使できるようになったら、日本の政府は日本の安全と国益を守るために、冷静な判断を下すのだろうか。武力行使の範囲が広がる一方で、政治家の現実主義的な判断能力は低下する。このギャップこそ、日本にとって存立を脅かす事態である。


7月13日 衆議院 平和安全法制に関する特別委員会 中央公聴会における意見陳述


Comment:
2015/07/13 3:38 PM, ta wrote:
素晴らしい陳述でした

今、問題になっていることは日本の安全保障のレベルではないと思っています
立憲主義、民主主義の危機だと思っています

そこに触れて下さいました
ありがとうございました
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