2013.02.05 Tuesday 14:35

権力偏重の末路

 

 このところいじめ、体罰、暴力など、殺伐とした話題が毎日のようにメディアに並んでいる。事はもはや、学校の運動部や一部のスポーツ界にとどまるものではない。日本社会の深い業について考えなければならない。

 団体生活における体罰、暴力といえば、私のように戦後の平和教育を受けた者は、野間宏の『真空地帯』や五味川純平の『人間の条件』で描かれた、軍隊におけるリンチを連想する。この問題について、戦後政治学の祖である丸山真男は、みずからの軍隊経験をもとに、次のように分析した。そもそも日本には、「権力の偏重」という文化がある。対等な人間同士が交際する水平な関係が広がらず、ピラミッド型の階層制組織における垂直な上下関係があらゆる世界を支配している。大は、中央官僚を頂点とする統治の世界から、小は地域コミュニティ、学校、家庭の中まで、「威張る―服従する」という上下関係で規律される。これが権力の偏重である。丸山は、福沢諭吉の『文明論之概略』からこのような着想を得た。

 明治以降、日本は形の上で天皇を頂点とする権力偏重の体制を作り、近代化、さらには侵略戦争へと邁進した。この仕組みは、号令一下組織を動かすという意味では効率的であり、権力者はこれを重用し、被治者は従順と同調を教え込まれた。丸山のように二等兵として動員された者は、組織の底辺で理不尽な暴力に苦しめられた。外に進出した部隊では、末端の兵が上から受ける抑圧への鬱憤を晴らすために、現地の人々に対する暴力、略奪を行った。抑圧は上から下に連鎖するのである。

 敗戦後、平和国家になったはずの日本で、権力偏重の構造自体は温存された。戦争はしなくなったが、利益の追求や運動競技における勝利に目的が代わっただけである。目標が外から与えられ、国家あるいは会社組織が一丸となって奮闘することが必要な時代には、権力偏重の体制は威力を発揮した。原発や基地の立地も、権力偏重の体制の中だから進んだ。政府や会社などの上品な世界では、暴力を振るわないまでも、札束を積んで人間の誇りを奪うことなどの手法で、一体性を作り出してきた。逆に、バブル崩壊、冷戦終焉以後の「失われた20年」という状況は、権力や経営者が知恵や方向感覚を失っているにもかかわらず、権力偏重の仕組みだけはしつこく残り、有効な政策を打ち出せない結果である。

 偉い人はグローバル人材の必要を説くが、その実、自分の頭で考えて批判的に物事を考える人材は嫌いである。ブラック企業や追い出し部屋のように、人間を物と同一視する会社がはびこっている。学校では、意味不明の改革により教師は窒息し、若者は実用主義的な技能の習得に追い立てられる。競争に勝つために、ますますものを考えない兵隊を作りたいと官僚も経営者も考えているのだろう。

 運動部やスポーツ界の体罰、暴力は社会の縮図である。政治家も経営者も権力の偏重を是認してきた。理不尽な命令にも文句を言わずに粉骨砕身するような人材を求めてきた。そうした伝統を「美しい」と称賛する総理大臣が、体罰や暴力を非難するなどというのは、笑止千万である。いま必要なことは、伝統と決別することである。

 鍵は、対等な人間同士の水平な関係である。もちろん、指導者と生徒の間、経営者と労働者の間には上下関係がある。知識や技能を教えるとき、怠惰を是正するときには、厳しい指導も必要だろう。しかし、それは指導者や経営者の能力に裏打ちされたものでなければならない。そして、教えられる側が真面目に考え、意見を言う時には、指導者は謙虚に聞かなければならない。

 しばらく政局論議を離れて、政治の場でも近代日本の業について話し合うべきである。異議申し立てを謙虚に聞く、異議申し立てをした人を守るために何が必要か、政治が手立てを考えなければならない。

熊本日日新聞2月3日


Comment:
2013/02/07 12:48 PM, 一般市民 wrote:
私は、署名記事と内部告発の区別をすべきだ、と考えます。前者は、執筆者が記事の品質証明をすることであり、署名があることによって信頼性が高まります。また、後者は、弱者が強者を告発することであり、人権擁護が必要になる、ということです。もし両者を混同されているなら、この区別を明確にしてもらいたいと思います。
2013/02/11 6:31 PM, KS wrote:
 最近、私は左翼に元気がないと思っています。たとえば、田原総一朗氏も『塀の上を走れ』(講談社、2012年)のなかで、「いまや左翼は保守的で、社会を変革する意欲に乏しい。変革のエネルギーが漲っているのは右翼である」(同書、359頁)と述べており、どうも私だけが思っていることではないようです。

 余談ながら、私は某大学で田原氏に一度だけ質問したことがあり、とても尊敬しています。このとき失礼だと思いつつ、座ったまま質問しましたが、足がガクガクと震えてしまい、後にも先にもない体験をさせていただきました。まったく根拠はありませんが、何となく「神が降りた」という気がしたものです。

 さて、山口二郎氏のブログであれば、左翼が跳梁跋扈していてもよさそうですが、いまはその気配がありません。私のような価値の多元性を重視する立場からは、たいへん懸念したくなる状況で、民主党に政権批判する資格がない現在、「左翼に奮起せよ」といいたくなってしまいます。

 ここでも、敢えて田原氏にこだわるとすれば、同氏は「権力というのは、こちらが真っ向から批判すれば、何か別のアイデアを出してくるものだと思っていた」(同書、313頁)と述べていますが、山口氏のブログを一見するかぎり、「是々非々」とコメントする人物がおり、そもそも左翼が「真っ向から批判」する気力があるのかと思いたくなってしまいます。

 ただ、念のためにいっておけば、田原氏は「ただ権力を批判するのではなく、こちらからも対案を出すことにした」ように「生き方を修正」(同前)したそうですから、一概に「是々非々」という立場を否定しませんが、それでも私は「真っ向から批判」する左翼に期待したいと思います。

 なお、ここまで田原氏に依存してきましたが、これについては自己批判しなければなりません。田原氏は78歳で現役ですが、それを裏返せば、私のような世代が田原氏に挑戦せず、安心して引退できる環境を整えることができなかった、あるいは、挑戦しても、競争に敗北してきたことを意味するからです。

 したがって、私は田原氏に依存しないように努力し、いつの日か追い越したいことを夢みています。
2013/02/21 2:19 AM, KS wrote:
 田原総一朗氏は日経BPネットで「G20で日本批判回避、アベノミクスをもっと丁寧に説明せよ」という記事を公開していますが、この記事の結末は次のようになっています。

「日本の一部メディアはどうも悲観論に走りがちで、政府を批判することがメディアの良心だと思い込んでいるようだ。『日本をもっとよくしよう』と知恵を出し合っていくことが必要ではないか。」

 私はこの見解に同意しかねます。その理由を以下で述べていきます。


 英国の思想家J.S.ミルは『自由論』(岩波文庫、1971年)で次のように述べています。

「否定的論理――理論上の弱点または実践上の誤謬を指摘するが積極的な真理を確立するのではない論理――を軽視することは、現代の流行である。言うまでもなく、かような否定的批判は、窮極の結論としては貧弱極まるものであろう。しかし、積極的な知識または確信と呼ぶに値する確信に到達するための手段としては、これを如何に高く評価してもなお足りないのである。」

 田原氏は前述の記事で、アベノミクスについて、「批判するのはいいだろう。しかし批判するのなら、ではどうすべきなのか、75円の超円高のままでいいのかをを明らかにすべきではないか」と述べていますが、私はミルの「否定的論理」に関する見解にも一理あると考え、対案を出すことの重要性を認識しつつも、メディアは「批判するだけでもかまわない」という立場をとります。


 また、丸山眞男は『忠誠と反逆』(ちくま学芸文庫、1998年)で三宅雪嶺を引用しています。丸山によれば、三宅は次のように述べています。

「独立心を憎むの官吏が教育を監督し、独立心を憎むの教員が授業を担任しては、性来独立心に富む者の外、強者に対して唯々諾々たるべく、……能く現在の趨勢を変ずべくも思はれず」。

「時代思潮の勢ひ熾んにして、優に反抗者を圧屈するに堪ふるの時は、其れ丈け世の進歩を遅くするの害あるべく、時代思潮の勢ひ熾んならずして、これに反抗する者多き時は、其れ丈け時代に活気ありて、世の進歩を促がすの効あるべし。」

 私は、安倍晋三政権の高支持率と野党勢力の貧弱さを考えるとき、「政府を批判することがメディアの良心」であり、それこそが日本を「活気」づけ、「世の進歩を促がす」一助になるという立場をとります。

 なお、教育についていえば、「有能有識の奴隷精神」が蔓延し、強者に対抗する意欲がなくなっているような気がします。これは「学力」以上に問題ではないでしょうか。

KAWAHARA S
2013/02/23 5:19 PM, KS wrote:
 一応、私なりにアベノミクスに対する見解を書いておきます。ただ、経済の専門家ではありませんから、具体的な対案を出すことができず、懸念を表明するにすぎないことをあらかじめ断っておきます。また、まちがいがあれば、訂正していただきたいと思います。

 もはや古いという批判もあるでしょうが、私はJ.アタリ氏の『国家債務危機』(作品社、2011年)の見解を支持しています。

 アタリ氏によれば、「日本の公的債務の国内保有率は95%にも達するため、これまでは金融市場の荒波から保護」(同書、1頁)され、また、「これまで日本の貯蓄率は、先進国の中で最も高かった」(同書1‐2頁)、ということです。ただ、「人口の高齢化が原因となって、公的年金と医療制度を維持するための費用が膨張し」(同書、2頁)、「今日、対GDP比で200%にも達した日本の公的債務は、先進国で最も深刻である」(同書、2頁)と指摘しています。

 そのうえで、アタリ氏は「このままでは、日本国内の貯蓄はすべて、公的債務をファイナンスするために利用されざるを得なくなることから、産業やイノベーションのために投入できる財源は不足するであろう。さらには、金利が上昇すれば、巨額の公的債務は制御不能に陥るであろう」(同書、2頁)と主張しています。

 さて、ここで問題にしたいのは、「金利が上昇」することです。アタリ氏は、日本の10年物の国債の利回りが世界最低の1%であることを指摘したうえで、「現在、日本の公的債務をめぐるリスクとは、金利上昇の局面となった場合である」(同書、3頁)と主張しています。また、この例として、「日本経済が穏やかなインフレに突入した場合には、公的債務は耐えがたいものとなるであろう」(同書、3頁)と警告しています。

 なお、同書の「訳者あとがき」によれば、ギリシャの10年物国債の利回りは10%超、フランスが2.6%、アメリカが2.7%のようですが(同書、308頁)、もし日本の利回りが1%から2%に上昇し、国債残高1000兆円であると仮定すると、1000兆円×0.01=10兆円という負担増が予測されることになります。私は並大抵のことではないと考えます。

 それでも、解決策を書かなければならないとすれば、アタリ氏が増税、歳出削減、経済成長、低金利、インフレ、戦争、外資導入、デフォルトという8つの選択肢を提示したうえで、「この中で国民全員に恩恵をもたらす唯一の解決策とは、経済成長である」(同書、5頁)と主張しているように、私もできることなら経済成長が望ましいと考え、アベノミクスに同意できる余地はあります。

 ただ、アタリ氏は「日本はOECD諸国の中で最も低い消費税率(5%)を引き上げるしかない。…中略…。これは絶対に必要な政策である」(同書、3頁)と主張しているように、現在の財政状況を直視すれば、私も消費税の増税に同意し、財政再建をしなければならないとも考えます。

KAWAHARA S
2013/02/26 3:15 PM, 36号 wrote:
2月3日の記事に同感です。政治の場こそ「うそ、いじめ、ねたみ、嫉み、陰口等々」あらゆるパワーハラスメントの棲家です。国政や地方自治よりも、権力の中枢に陣取るためなら体裁や建前を盾にして屈服させる。
この政治家の体質を変えなければ、いじめや体罰は無くならないでしょうね。もちろん、ヒステリックな非暴力も如何かと思います。
ネットもいじめや中傷が多くて読んでいるうちに気分が悪くなります。日本人は大勢の前では、いい人を演じますが、匿名になったとたん牙をむき出しにわめいている。
気が弱くて優しくて親切でお節介でソソッカシクてドンくさい、味噌っかすのような人が生きていてもいい世の中が幸せだと思うのは私だけでしょうか?
2013/02/26 6:00 PM, KS wrote:
 そういう36号さんも匿名で書かれていますね。おたがいに実名で対話してみませんか?

 私は川原修一です。
2013/02/26 9:53 PM, a改めb wrote:
このところいじめ、体罰、暴力など、殺伐とした話題が毎日のようにメディアに並んでいる

メディアには別な意図があるでしょう。教職員に対する弾圧が始まるといったのは山口先生です。これは橋下徹に対する援護射撃であり、日教組を弾圧し、新自由主義的、タカ派的教育に「改革」するための情報操作の一環と睨んでいます。


いま必要なことは、伝統と決別することである。

決別するのは伝統ではなく因習、悪習の類でしょう。伝統と決別してしまったら、民族、文化が失われる。終身雇用、年功序列の日本型経営が否定され、リストラの流行、非正規雇用が増えて会社に忠誠心を誓うことのメリットがなくなった。首にならない程度に手を抜かないと割に合わなくなってしまった。格差社会批判、蟹工船ブームもあだ花に終わった。




36号さん、KSさん

日本のネット上の匿名文化を破壊しようとするアメリカ的な発想ですね。もっとも匿名の2ちゃんねるも工作員だらけでどうしようもありませんが…。フェイスブックといい、ネットで個人情報が曝け出される。『1984』のような世界になりつつあるようです。
2013/02/26 11:50 PM, KS wrote:
 結果として、やはり売名行為になってしまうことに気づいたので、フェイスブックなり、どこかに引っ越そうと思います。ただ、私は責任ある言論活動には実名であるべきだと考えますから、それを説明するために、I.カントが『プロレゴメナ』(岩波文庫、1977年)で次のように述べていることを引用しておきます。

「そうなれば私は、私の「批判」に加えた評者の非難を進んで正当と認めることにしよう…略…。しかしそれには評者が匿名をやめる必要がある、と私は思うのである。さもないと匿名の、しかもその任ではないような沢山の相手から一つどころかいくつもの課題を矢つぎばやに持ち出されるという有難迷惑をどうして防いだらよいのか、わかったものでないからである」(同書、271頁)

 同書の「あとがき」、すなわち解説に該当する箇所では、「カントは、彼の新らしい学説を評者がひとつも理解しないにも拘らず、無礼な態度で『批判』を酷評し、そのうえ匿名であることに強い憤りを感じ」(同書、283頁)と指摘されており、カントのような立派な人がそう感じるなら、やはり責任ある言論活動は実名であるべきだと考えます。

 いずれにせよ、a改めbさんみたいな人が山口教授のブログを盛り上げればよいでしょう。たとえ私がこのブログから去ったとしても、山口教授は何とも思うことはないでしょうから。

川原修一
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