2004.01.16 Friday 13:34

03年3月:小泉改革の終焉と民権政治の危機

 この文章が読者の目に触れるころには、アメリカによるイラク攻撃が始まっているかもしれない。株式市場はすでに戦争を懸念して、バブル崩壊以後の最安値をつけている。不安定な世界経済にとっては、イラクの大量破壊兵器よりも、遮二無二戦争を推し進めるブッシュ政権のほうが大きなリスクとなっている。そして、そのブッシュを支持する小泉政権も、日本の危機をわきまえていない。戦争が巨大なケインズ主義的有効需要創出策だったのは昔の話である。今イラクを攻撃すれば、石油の値上がりやテロの危険性の増加に伴う萎縮効果によって、世界経済はますます疲弊するに違いない。

 以前に本欄で書いたことでもあるが、英語における「民権的なるもの(civil)」の反対概念は、軍事的なもの(military)である。その理由は、古来戦争と重税は切っても切れない関係にあり、戦争が起これば国家権力が民の力をすべて動員し、民が官権に従属させられるからだと解釈できる。したがって、文民統制(civilian control)とは、民の代表が軍事力の行使について決定権を持つという原理を意味する。市民は軍事問題に関して素人であっても、市民がその常識に基づいて軍事問題を判断する体制を保持しておかなければ、軍事の専門家である職業軍人は往々にして暴走するという歴史的経験を踏まえて、この原理は確立された。

世論による政治とは何か

 ところが、今の世界では民を代表して軍を統制すべき文民政治家が、軍の指導者よりも軽率で無謀だという逆説が見られる。アメリカでは、パウエル、シュワルツコフなど湾岸戦争を実際に戦った軍の指導者がイラク攻撃について慎重であり、ブッシュ大統領やネオコンサーバティブと呼ばれる理論家が戦争に積極的である。国務長官を務めるパウエルの苦衷は、テレビを通しても伝わってくる。そして、日本でも映像を通してしか戦争を見ない安全地帯の政治家が戦争協力に熱心である。本来民主政治における政治家は、国民の感じる当然の疑問や常識を政策決定に反映させるところにその役割がある。しかし、ブッシュ大統領や小泉首相は、国民の常識を省みず、軍事専門家の猿真似をすることで自分が立派な指導者になったような錯覚に陥っている。今政治家に必要なものは、局地的な軍事知識や向こう見ずの血気ではなく、判断力と常識である。その際、政治家が依拠すべき国民の常識が世論である。

 小泉首相は国会答弁で、「世論に従って政治をすれば間違うこともある。それは歴史の事実が証明している」と述べた。これは、世論の子、小泉首相にとって致命的発言である。歴史上、世論が間違ったのは、かつての日本による中国大陸への侵略の時のように、国民が威勢のよい政治家や軍人にあおられて、前後の見境もなく対外強攻策に熱狂したときである。最近の例で言えば、拉致事件に激昂して、北朝鮮とはいかなる交渉にも応じるべきではないという強硬論が国民の支持を得たときなどがこれに当たる。小泉首相は、世論から距離を置いて冷静に国益を考えるべき時には、国民感情に棹さして強硬論の側に立ち、国民の声に耳を傾けるべき時には、国民感情に背を向けて戦争協力を進めようとしている。どちらの事例でもその根底に共通しているのは、小泉首相の判断力の欠如であり、思考停止状態である。

 発足から満二年を迎え、小泉政権と世論の関係も変化している。世論が小泉政権に大きな期待を寄せたことには理由があった。日本の政策形成を担ってきた官僚制が様々な面で失敗や破綻を来しており、大胆な政策転換をしなければ日本が沈没してしまうという危機感が国民に共有されている。罪は官僚にあるだけではない。長年与党の座にあった自民党も、官僚を使って個別的な利益誘導を行うことには長じているが、政策を転換することは不得手である。政治家も官僚も、このまま進めば氷山にぶつかることが分かっていても、舵を切ることができない状態のまま過去十年あまりを過ごしてきた。そのことに対する危機感が変人ともいわれた小泉首相への支持となって集まったのである。

 小泉首相の使命は、世論の望むことに全力を傾注することだったはずである。外務省の腐敗、公共事業をめぐるあっせん・口利き政治の横行など正すべき課題は単純、明瞭であった。しかし、いつしか小泉首相は世論を聞くことよりも、世論を操作し、自らの政権の延命を図ることに大きな関心を持つようになった。

アドバルーンの政治をやめよ

 この一年ほどの小泉政治は、大きな改革課題を打ち上げて、改革勢力と抵抗勢力の対決という図式を作り、一幕のドタバタを演じることで国民の注目を集めるという手法で成り立ってきた。たとえば、最近の特区論議にしてもそうである。時代遅れになった規制を撤廃するために、地方から声を上げるという政策自体は大いに評価したい。しかし、特区申請を認めるかどうかについては、相変わらず中央官僚が権限を握り、政策の根幹を変えないように防波堤を準備してある。特区における政策の実験から、根本的な規制緩和や地方分権に進むという道筋は全く見えていない。

 あげくの果てに、医療分野への営利企業の参入という政策が鳴り物入りで決定された。これなど、小泉政権における空騒ぎの典型的な事例である。高齢社会における医療政策を再構築することは重要な課題である。医師会や製薬業界の既得権を見直すことも必要である。しかし、今回の規制緩和によって、金持ち相手の自由診療専門の病院を造れるようになっても、医療政策の改革とは何の関係もない。世間からは聖域に見える分野で、何か一つ目新しいことをすること自体が、小泉政権における改革の実態である。

 また、小泉政権のもとでは、総務官僚のための情報系公共事業ともいうべき住民基本台帳ネットワークの運用が開始され、個人情報保護法案も推進されるなど、官僚のための政策が粛々と実行されている。民の力を解放するという理念は、今の政権からは窺えない。

 先日、首相と橋本龍太郎、古賀誠両氏が会談した際、小泉氏は日本の首相の任期は短すぎると不満を述べたという新聞報道があった。小泉氏がもっと長く首相を務めたいということは、何かやりたいことがあるということであろう。仮に改革の野望があったとしても、これだけ世論が小泉改革の幻滅してしまえば、自民党の抵抗を乗り越えて実現することは難しい。

 小泉首相の取るべき道はただ一つである。アドバルーン政治をやめて、国民の信任を改めて取り付けることである。折しも、最近地方では、北川三重県知事などが提唱するマニフェスト運動が広がっている。選挙の際に政権政策を具体的に明示して戦うという趣旨である。マニフェストが最も必要なのは国政である。具体的な改革構想が選挙で提示され、国民がそれを選んだとなれば、官僚も非主流派も反対の大義名分を持たない。改革を進める首相の力を生み出すものは、永田町の政治算術ではなく、国民世論であることを小泉首相に思い起こしてもらいたい。

 民の力を伸張するためにはどのような政策が必要か、与野党ともに率直に議論し、国民に決める機会を与えてほしい。

2004.01.16 Friday 13:31

03年2月:イラク戦争に荷担するな 

日本のメディアを通して世界の動きを見ていると、しばしば分からないことが多くて当惑する。その原因をたどってみると、日本語において動詞の意味上の主語が曖昧であることに行き着く。たとえば、テレビのニュースでは、「イラク情勢が緊迫化する」とか「北朝鮮との交渉が膠着化する」といった言い方がしばしばなされる。これらの文には主語と述語があり、もちろん文法的に間違いではない。物理的現象を主語とする文でも、台風が接近するとか、火山が噴火するといった場合ならば、別に違和感はない。ということは、イラク情勢や日朝関係を台風や火山などの物理的現象と同列に扱っていることが、私にとっての違和感の原因ということになる。

 実際、イラク情勢や日朝関係は台風と同じではない。台風は人間の意志とは無関係に襲来するのに対し、国家間の関係は人間が作り出すものである。「情勢の緊迫化」も「交渉の膠着化」も人間の意志の所産である。現実に迫った的確な表現をするためには、誰のいかなる行動によってそのような事態が出現したかを考え、人あるいはそれに準ずる行為主体を主語にして文を作るべきである。イラクの例で言えば、常に外敵に対する武力行使をしていなければ人気を保てないアメリカ大統領と、石油利権に目がくらんだその側近がイラク情勢を緊迫させているという表現の方が事態の本質を衝いている。

 メディアが抱えるもう一つの問題は、ある時期大騒ぎした問題をしばらく後にはきれいに忘却することである。これは日本のメディアに限らない。また、忘れるというよりも、意図的にある問題を人々の視界の外に追いやるということもあるだろう。

 その最大の事例は、アメリカによるアフガニスタン征伐であり、この経験はイラク問題の今後を考える上でも不可欠の教材である。アメリカ軍がアフガニスタンのタリバン政権を打倒したとき、各国のメディアは、一般市民が歌舞音曲を楽しむ様子や女性が自由を回復した模様を報道し、タリバン政権の崩壊を解放、民主化の成功物語として意味づけていた。アメリカの石油ビジネスで活躍した人物を暫定政権の首長にした後、その政権の下で何が起こっているか、テレビや新聞はパッタリと伝えなくなった。実際は、軍閥が割拠し、役人の腐敗は横行し、タリバン政権時代よりも治安は悪化した。アメリカによるアフガニスタンの「解放」が成功したものではないことを広く世界に知られることは、同じようにフセイン政権を打倒しようとしているブッシュ政権にとって不都合である。アフガニスタンの現状についてきちんと報道しないマスメディアは、そうしたブッシュ政権の行動を支持していることになるのである。

政策遂行のコストと便益を冷静に計算すべき

 解放や民主化を実現するために独裁政権を武力で倒しさえすればよいという考えは、単純であまりにも楽観的であることは、アフガニスタンの事例からも明らかである。私はもちろん、独裁者が人権を抑圧することには反対である。また、どこの国であれ民主化することはよいことだと思っている。しかし、先進国が遅れた国を民主化するために自分の戦略を押し付け、結果として専制時代よりも大きな無秩序や暴力をもたらすことには反対である。民主化とは、それぞれの国の市民自身が内発的に進めるのでなければ、うまくいくはずはない。

 非西欧圏における民主化の成功例としては、南アフリカや韓国の事例がある。かつての南アフリカにおけるアパルトヘイト政策は、人道や民主主義の理念に反するものであった。しかし、そのときに人種平等と民主主義を訴える国が軍事干渉し、少数派に過ぎない白人を追い払おうとしたら何が起こっていただろうか。泥沼のような内戦が起こり、仮に民主主義を叫ぶ勢力が権力を握っても、武力で勝ち取った権力を守るために新たな独裁政治が生まれていたに違いない。アパルトヘイト政策のもとで平等を主張する運動家が投獄されたのを見るのは忍びないことであった。しかし、そうした苦難の道を通り抜けたからこそ、持続可能な民主的秩序が生まれた。

 私は独裁者の圧制を傍観せよといっているのではない。直接的な武力行使は民主主義という大義を実現する手段にならないということを言いたいのである。アメリカの軍事力をもってすればフセインを追放することは簡単であろうが、その後はフセイン時代以上の無秩序が出現することは明らかである。イラクは常に外国軍隊の駐留がなければ治安を維持できない失敗国家(failed state)になるであろう。

 大量破壊兵器に対する抑制についても同じ問題がある。イラクが生物・化学兵器を持つことは好ましくないと誰しも思う。しかし、それが世界全体にとっての脅威になると言われても、すぐには理解できない。イラクは核兵器を持っていないが、インド、パキスタン、イスラエルなどは核兵器も持っており、地域紛争における武力行使の中では大量破壊兵器を使う危険性を秘めている。世界にとっての脅威と言うなら、これらの国々にも厳しい査察を行なうべきである。イラクの大量破壊兵器を壊すために軍事侵攻すれば、イスラム過激派のテロリストの報復を招くことは必至である。強硬手段で大量破壊兵器を取り除くことがかえって世界の危険を高めることになる。

憲法九条の現実性

 政治の世界では、ある理想を実現するために何かの手段を実行したとき、その手段がもたらす副作用によってかえって理想から遠ざかるということがしばしば起こる。エドマンド・バーク以来の保守主義者の革命に対する懐疑は、その矛盾を衝いたものであった。今の世界では、ブッシュ率いるアメリカの保守派が向こう見ずな革命家の役割を演じ、それに冷水を浴びせる懐疑主義者がいなくなってしまった。

 このような状況で私は憲法九条に新たな意味を見出す。日本では、九条は素朴で幼稚な理想主義の表明だと批判されてきた。日本帝国が瓦解したとき、人々が九条を歓迎したのは高邁な理想に共鳴したからだろうか。その日を生きるのに懸命だった人間が高邁な理想に共鳴するはずはない。むしろ九条は、戦争という手段に訴え、おびただしい犠牲者を出してまで追求するに価するようなものがこの世にあるのだろうかという懐疑の念の現れとして理解すべきである。紛争処理の手段として軍事力には限界があることを主張する点で、憲法九条は現実を射抜いている。

タカ派の政治家は九条のもとで日本人は平和ボケしたという。しかし、九条に愛着を持つ人は、戦を恐れ、無辜の民が犠牲になることを心配する点で、正気を保っている。逆に、常に自らを安全地帯に置き、強者の背中から戦を見、自分も何かしたいといきがる連中の方が、よほど平和ボケしている。

 アメリカがイラク攻撃を開始したとき、日本人の生き方も問われることになる。日本人としての誇りを持ちたいならば、向こう見ずな革命家の後ろを恐る恐るついて行くことではなく、超大国の暴走に冷水を浴びせるところに日本の役割を見出すべきではないか。

2004.01.16 Friday 13:27

03年1月:政治危機の二〇〇三年

 今年は四月に統一地方選挙があり、衆議院の解散、総選挙も予想されている。それだけ選挙があれば、リーダーシップの転換の契機となりそうなものだが、今の日本にはそうした期待は存在しない。むしろ、今年は日本の民主政治にとって大きな危機の年となるように思える。そうした悲観的な予想をする理由には、政治主体の問題と政治を取り巻く環境の二種類がある。

 まず、環境要因から見れば、二〇〇三年には戦争と恐慌という二つの難問に政治が取り組まなければならない。

 戦争とはいうまでもなく、アメリカが起こすかも知れない対イラク戦争にどう対応するかという問題である。もちろん、イラクへの攻撃には何の大義名分もない。対イラク戦争は、いわばブッシュ政権の私闘である。イラクは協力的ではないにしろ、大量破壊兵器に関する国際査察を受け入れているのであり、いわば国際的な監視下にある。「あの国は気に入らないから、先に攻撃することも自衛権の行使だ」というブッシュ政権の主張は、一七世紀のウェストファリア条約以来確立された国際法秩序を根本から覆すものである。その意味では、他ならぬアメリカこそが「ならず者国家」になろうとしているのである。

 イギリスを除く世界中の国は、こうしたアメリカの暴走をいかにして押しとどめるかについて、知恵を絞っているところである。イギリスでさえ、政府与党内に対米協力反対論が強い。この点で、日本の対応が問われている。昨年末、日本は自衛隊のイージス艦をインド洋に派遣した。西アジアにおけるアメリカの軍事行動を支援する体制は一層強化された。政府内部では、イラク攻撃を支援するための新法の検討が進んでいるという新聞報道もあった。政府首脳はブッシュ政権の意を迎えることにしか関心ないようである。

ブッシュの私闘に荷担することが日本の国益か?

 仮に日本がブッシュ政権の戦争に荷担するならば、それは憲法九条を破棄することを意味する。前線と後方支援の区別など、日本の官僚や政治家が気休めのために考え出した言葉の遊びである。対イラク戦争でアメリカを支援するということは、日本も参戦するということであり、同時にイスラム世界を敵に回すということである。

政治指導者が今なすべきことは、日本国民の利益という観点から日本のとるべき方針を選択し、国民を説得することである。もし、ブッシュ政権の私闘に荷担することが日本人の利益になると信じるのならば、政治家はそれに伴う利害得失を明らかにした上で国民に覚悟を迫るべきである。憲法九条はその際の障害になるのだから、あわせて憲法改正も提起すべきである。それだけの心構えもなく、アメリカのご機嫌をとりたい一心で裏口から戦争に参加するというのは、もっとも卑怯なやり方である。

 政府与党の一部には、憲法九条があるから日本は一人前の国家になれない。はっきりと軍隊を持ち、集団的自衛権を行使することを通して、日本も一人前の国家になるべきだと考える政治家がいる。しかし、軍事力を行使することと、国が一人前になることとは何の関係もない。アメリカに忠誠を尽くすためにより危険な役目を引き受けるというのは、危ない目にあえばあうほど親分に気に入られるだろうと考えるやくざの三下の発想である。一人前の国家とは、国民の利益を冷静に見据え、果敢に行動する国のことである。ブッシュ政権の私闘から距離を置くためには、憲法九条は使いでのある道具となりうる。九条があるからこそ、日本は一人前の国家になれるのである。

勝者総取り経済の危険

 政治にとってのもう一つの難題、経済再建も困難の度を増す一方である。小泉首相はルイヴィトンの売り場に大勢の客が集まっているから不況はそれほど深刻ではないと言っている。こんな能天気な首相を持つ日本人は不幸である。地方経済の疲弊はとどまるところを知らず、若年者の雇用は危機的状態である。現政権が信奉するネオリベラルの経済政策は、「勝者総取り」をもたらす。しかし、この路線を徹底し、敗者を素寒貧のまま放置するならば、勝者自身も生きていけない社会ができてしまう。消費の低迷という当面の問題は、勝者総取りによっては解決されない。日本にとってより根本的な脅威は、普通の日本人に対して職業生活を通して自己実現を図るという生き方が閉ざされることによる社会の荒廃である。「平等」といえば目の敵にされる昨今だが、普通の人が人間らしい生活ができるような環境を保持しなければ、治安の悪化、活力の低下など国全体の衰退につながることは目に見えている。若年層における正規雇用の喪失によって社会保険制度が崩壊し、その上に現在比較的余裕のある前期高齢者の本格的な高齢化が重なれば、日本社会は地獄の様相を呈するに違いない。

 今政治がなすべきことは、「痛みに耐えろ」という説教を国民にすることではなく、国民に仕事を与えることである。まじめに働く意欲のある人間が生活に困らないようにすることは、政治の責任である。いまさら公共事業の垂れ流しに戻れとは言わない。高齢化への対応、子育て環境の改善など、新たなフロンティアを見つけることは難しいことではないはずである。

 我々が直面している政治の課題は、かくも困難なものばかりである。そして、それに取り組むべき政治主体の力量は低下する一方である。小泉政権と自民党抵抗勢力との間で見せかけの喧嘩を行って国民の耳目を集めるという政治芝居のばかばかしさは、そろそろ国民の知るところとなった。しかし、政府与党は外交分野で次のスペクタクルを演出している。北朝鮮の国家犯罪や恫喝的な外交手法は、いくら非難しても飽き足りないと思うのが国民感情である。しかし、政治指導者までもが国民感情に安易に便乗して、北朝鮮の非難の戦列に加わるということは、政治における思考停止状態を長引かせるだけで、指導者としての責任放棄である。エリートのエリートたるゆえんは、国民感情から離れて、国のあり方について冷静な思考を行う地点に身を置くことにある。落着点を考えずにナショナリズムを鼓吹することは、政治家にとって麻薬のようなものである。

 野党では次の総選挙に向けた協力の議論が始まったが、何のために政権交代を起こすのかが国民にはまったく見えていない。自民党政権のどこを否定するかが見えてこないから、野党の協力が単なる数合わせと見られるのである。

 政党政治には、日本が直面している大きな岐路について、価値の座標軸を立てたうえで論理的に議論するという作業こそが求められている。小泉政権の失政が明らかになっている今、野党こそがその役割を果たさなければならない。民主党から、次の選挙の不安ゆえに離党する政治家が相次いでいる。しかし、それは本来の政党政治の筋道にとってはよいことである。党の求心力だの、選挙協力だのといった話は、政治の針路を明確にしなければできないはずである。野党が議論を放棄するならば、現在の思考停止状態がさらに続くことになる。そして、二〇〇三年は日本の政党政治にとって、「終わりの始まり」の年になるであろう。

2004.01.16 Friday 13:24

02年12月:的外れの教育改革論議

政界では教育基本法改正論議が盛んである。中央教育審議会は、国や郷土を愛する心や公共への参画を盛り込んだ教育基本法改正の骨子を発表した。一連の議論を聞いていると、教育をだしにして自らの趣味を国民に押し付けようとする政治家のやり口に呆れるばかりである。そもそも現在、一部の子供に見られる荒廃現象は、教育基本法とは無関係である。青少年の犯罪率は敗戦間もない時期が最高で、以後一貫して、ということは教育基本法のもとで低下してきた。最近の凶悪犯罪は、享楽的な消費文化の浸透、就職難と将来展望の欠如、大人への不信感の高まりなど様々な要因が重なり合った結果であろう。いずれにしても、子供の荒廃は大人社会の反映である。

 問題の根源に迫る努力をせずに、手っ取り早く誰か、何かのせいにして答えを出したふりをするという大人の姿勢こそ、本来の教育とは正反対のものである。教育基本法を改正すれば教育がよくなるなどというくだらない議論をする大人に、教育改革を語る資格はない。教育を改革するということは、大人社会を改革することの延長線上で初めて可能になる。現代社会の問題を教育のせいにして、自分たちの責任を認めようとしないようないいかげんな大人の言うことを、子供がまじめに聞くはずはない。教育基本法の改正を通して愛国心だの公共心だのという説教を子供にしようとしている政治家には、今の経済や雇用問題に取り組んで若者に少しでも多くの仕事を提供する方がよほど教育効果は大きいと言いたい。

愛国心と伝統をめぐって

 そもそも教育基本法は、田中耕太郎や南原繁など、どちらかというと保守的な学者による戦後の教育改革の中で、教育勅語に代わって民主国家日本における教育の指針を示すものとして制定されたという経緯がある。南原繁は進歩的知識人の元祖のように思われているが、実は大変なナショナリストであった。明治維新の後に急ごしらえで打ち立てられた忠君愛国や滅私奉公などの「伝統」が結局悲惨な戦争につながったという前提で教育基本法は作られた。この前提を今一八〇度転換する必要はない。

 では、今尊重すべき日本の伝統とは何か、愛国心とは何を意味するのか。基本法にこれらの言葉を書き込むのならばその意味について議論する必要がある。花鳥風月を愛でるという意味で伝統を尊重することには誰も異論はないであろう。他方、近代の日本を振り返ってみれば、太平洋戦争の敗北からバブル崩壊に至るまで、日本人の思考様式の中に悪しき伝統が浮かび上がってくる。それは、希望的観測に流されて冷静な事実認識をすることが苦手であること、個人の信念を貫けない同調主義、失敗に対する無責任などである。こうした伝統を克服することなしには、日本の未来は開けてこないのである。

 自分の生まれ育った地域や国に愛着を持つことは自然なことである。そのことに異を唱える人はよほどのへそ曲がりであろう。しかし、国を愛するということは自国をすべて正当化し、他国を見下すこととは異なるはずである。真の愛国者は、日本の中国大陸侵略や朝鮮半島植民地支配を正当化するのではなく、それらの責任を潔く認めて、謝罪と償いをきちんとするはずである。最近マスメディアを占拠している感のある北朝鮮による拉致事件にしても、拉致事件に関する北朝鮮の責任を追及することは当然としても、植民地支配に関する責任はそれとは別にきちんと取るべきである。

 仮に、自分の愛する地域や国の誇るべき財産が一部の人間の私利私欲のために破壊されたときに、「愛国者」はどう行動すべきだろうか。愛するものを守るために行動することが愛国者の使命である。地域や国を愛するがゆえに、大きな力を持った者と戦うこともあるはずである。基本法改正論者の主張が説得力を持たないのは、伝統や愛国心を強調することによってどのような人間を作り出そうとしているのか、そのイメージが浮かんでこないところに理由がある。伝統を尊重するとか国を愛するといった観念的な徳目が叫ばれるだけで、それが具体的にどのような行動や生き方につながるのかが不明である。これでは、従順な民草を作り出すだけと疑われても仕方がない。逆に、私がここで描いた能動的な愛国者のイメージは、今の教育基本法に言う「平和的な国家および社会の形成者として(中略)自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民」を具体化するものである。各地の環境を守るための市民の運動や長野など地方選挙における民意の発露を見れば、基本法の描く理想は制定後半世紀を経てようやく少しずつ実現し始めたということができる。

公共への参画とは何か

 今回の基本法改正論議の中でのもう一つのキーワードが「公共」である。この議論は、戦後教育の中で個人の権利や自己主張ばかり重視され、公共の利益がおろそかになったという批判に応えるものである。基本法改正に熱心な政治家は、この種の議論を始める前に、ほかならぬ自民党型の利益政治こそが公共の利益をゆがめてきたことを反省すべきである。自民党の長期政権の下で、民主主義は陳情と公共事業、補助金などの利益獲得との交換のシステムとして定着してきた。国民の側は、自分の所属する地域や集団の即物的な欲求を官庁にぶつけ、利益を引き出すことこそ政治だと信じてきた。国民と官庁の間を媒介する政治家も、そうした国民の欲望追求を甘やかしてきた。官僚の省益追求と利益集団の利己主義によって、民主主義は引き裂かれてきたのである。公共の利益という説教をするならば、相手は子供たちではなく、今まで公の金や権限を私物化してきた官僚や族議員である。

 今の日本に権利が過剰だというのは、権利(right)という言葉の意味を誤解した議論である。実は日本人は基本的人権を脅かされることに関してきわめて鈍感である。だからこそ、住基ネットなどというプライバシーを侵害する制度に対しても、反発が沸いてこない。今の日本にあふれかえっているのは、特権(privilege)の主張である。権利とは多数決によっても侵せない人間にとっての不可欠なものであるのに対して、特権とは政策によって付与された利益でしかない。今までの利益政治の仕組みは、政治家と官僚が国民に特権を振りまき、その見返りに支持を得るという交換からなっていた。その反面、特権の氾濫の中で公共の利益が見失われていたのである。ダムや干拓など、一部の官僚、族議員、土建業界の特権を維持するために税金の浪費と環境破壊がまかり通ってきたことなど、その象徴である。

 最近ようやく様々な地域において、地域を愛するがゆえに政治家や官僚の言うことを鵜呑みにせず、公共の利益を自分たちなりに考え、それを実現するために主権者として権利を行使するという動きが出てきた。大規模公共事業や原発を止めるための住民投票は、地域における公共の利益を実現するための試みの一つである。公共の利益を尊重し、公共に参画する市民の動きは、遅すぎたとはいえ、教育基本法の所産である。この点でも、観念的な基本法改正論の矛盾は明らかである。

2004.01.16 Friday 13:21

02年11月:統一補選と政党政治の危機

 一〇月二七日に、衆参合わせて七選挙区で補欠選挙が行なわれ、与党が圧勝し、鳩山新執行部の民主党はかろうじて完封負けを免れるという惨敗であった。この補欠選挙は、日本の政党政治がほとんど進歩していないことを物語っていたように感じた。

 九月の内閣改造以来、日本の政治は迷走を続けている。国民の目が北朝鮮の拉致事件に注がれている間に、政治、経済の危機は深刻化する一方である。小泉首相が自民党内の常識を無視して内閣改造を行なったときには、私は、この内閣は不良債権処理をはじめとする懸案に本格的に取り組むかもしれないという期待を持った。それは、小泉首相がこの内閣の課題を明確に示した上で、自らの判断によって閣僚の人選を行い、閣僚に対しても取り組むべき政策テーマを課したという組閣の仮定に基づく判断であった。今回の内閣改造は、内閣の政策的求心力を高め、派閥や当選回数による人事という内閣の機能不全をもたらした要因を排除したという点で、画期的なものであった。その点で、首相公選論者であったはずの小泉首相が、議院内閣制における本来の首相のあり方を体現していると私は考えたのである。

 しかし、与党との関係においては、小泉氏は本来の首相のあり方を確立するには至っていない。政策を示して閣僚人事を行なった所まではよいが、金融問題を中心に厄介な政策の調整を閣僚に丸投げしたという印象を与えてしまった。しかも、丸投げした相手が竹中平蔵氏という民間人であり、つい数ヶ月前には無理やり「景気底入れ」を宣言したという経済に関して見識を持っているとは思えない人物であった。不良債権処理に関するハードランディング路線が地域におけるまともな中小企業への死刑宣告につながることを恐れた「抵抗勢力」の政治家が、竹中大臣への批判を強めるのは当然の帰結であった。

 不良債権処理は竹中氏の手には負えない難題である。プロジェクトチームを作るのならば、首相直属のチームを作り、小泉首相自身が分かりやすく具体的な言葉で金融政策の基本的枠組みを語り、政策決定をリードしなければうまくいくはずはない。この点で、小泉首相が与党に対してリーダーシップを発揮しようとしないことは奇異でさえある。

選挙で国民は何を選べばよいのか

 政策をめぐる内閣と与党の対立の中で、今回の補欠選挙は戦われた。国民が最も関心(あるいは寒心)と不安を持っている経済政策の基本的方向性に関して選挙戦を通して議論が深められたとは到底言えない。そもそも候補者の立て方からして、政党、政治家は選挙民を愚弄していた。山形や鳥取では、自民党側が候補者擁立に手間取り、以前の国政選挙では自民党と対決していた人物を推薦した。

 二年前の総選挙の際、たまたま鳥取に行く機会があり、今回自民党推薦で当選した候補者がその時自民党公認候補を相手に戦った際のパンフレットを読んだ。自民党に悪態をつくことにかけては人後に落ちない私も感心するほど見事な自民党批判であった。しょせん政党というものは、自民党にせよ野党にせよ、野心家が国会議員になるためにその時の風向き次第で使い分ける道具でしかない。いまさらこんなことを言うのは、日本政治というものを知らない素人の正論ではあろう。しかし、こんなことをしているから、日本はいつまでたっても政治の力で社会や経済の問題を解決できないのである。

 選挙戦では小泉首相が自民党候補の応援のために駆け回った。それは自民党の議席を増やすためであって、首相の唱える構造改革に対する支持を集めるためではない。個々の候補者は、とりわけ農村部の選挙区において、構造改革とは正反対の財政出動による景気回復、公共事業の推進などを訴えた。たとえば選挙民が小泉流構造改革を進めたいと考えるならば、自民党の候補に投票することがそのためになるのか、それに逆行するのか、分からない。今回の補欠選挙が低投票率に終わった原因の一端は、そうした分かりにくさにあった。

 小泉首相には、もはや「改革に抵抗するなら自民党をぶっ壊す」と叫んだ頃の魅力はない。国会議員になるためならば何でもするという機会主義者にむざむざ力を貸すような小泉首相は見たくないというのが心ある有権者の感覚であろう。また、総裁である小泉首相が自民党の機会主義を容認するならば、それだけ改革を自ら遠ざけることになるのである。

 選挙とは、単に代表者を選ぶ機会に止まらず、国民自身が国政の基本的方向付けについて覚悟を決めて選択するための機会であるはずだ。首相の側で覚悟が定まっていないならば、国民の側も腹をくくることなどできるはずはない。首相が構想していた改革が与党議員の反対によって頓挫しているという現実がある。この隘路を打開するには、国民の世論をてこにするしかない。自民党の公認や推薦は、総裁である小泉首相の名前の下に与えられる。だとすれば、自民党の公認や推薦をもらうことは小泉改革を支えることを意味するはずである。基本的な政策について候補者を縛ることは、総裁の独裁ではなく、政党政治に当然必要なけじめである。

 同じことは野党にも当てはまる。鳩山氏が民主党代表選挙で勝利し、中野寛成氏を幹事長に起用した時点で、この補欠選挙における民主党の敗北が事実上確定していた。政府与党が当面の経済政策をめぐってこれほど混乱を露呈している時に、明確な対抗ビジョンを打ち出せない野党など必要ないというのが、今回の補欠選挙に現れた民意である。できたばかりの鳩山執行部には申し訳ないが、国民がこれほどまでに民主党を無視、黙殺しているのである。早急にリーダーシップの入れ替えを図るべきである。

政党政治のハードランディングというシナリオ

 私は経済に関しては素人だが、今の日本経済が本当の危機にあることくらいは分かる。本来であれば、解散、総選挙を断行して、経済危機の打開策について国民の判断を仰ぐべき状況である。各政党は、どのような理念のもとで、どのような政策をとるのか、具体的な選択肢を示すべきである。とはいえ、自民党も民主党も、党として一つの原理、筋道を示しえないところに、日本政治の最大の悩みがある。

 不良債権処理に関して、ハードランディング、ソフトランディングという議論がある。素人目には、消防車や救急車をきちんと待機させた上で、ハードランディング路線をとることが望ましいように思える。どの道をとるにしても、内閣と与党でけんかをしているような場合ではない。

 私がもっとも恐れるのは、「意見の多様性がわが党の美徳」などと政治家が呑気なことを言いつづけ、政策に関する無責任状態を続けるならば、政党政治そのものがハードランディングするというシナリオである。先日、民主党の石井紘毅代議士が刺殺されるという衝撃的な事件が起こった。思想的背景は不明であるが、政治に対する欲求不満が暴力に結びつくという風潮の表れかもしれない。経済の危機は、政党政治の危機でもある。与野党を問わず、リーダーの責任感が求められる。

2004.01.16 Friday 13:18

02年10月:民主党の終わりと政党政治の混迷

 民主党の代表選挙では、鳩山由起夫氏が勝利を収めたが、その勝ち方の悪さゆえに、この党は結党以来の危機に直面することになった。国会議員と次回総選挙候補予定者は、鳩山代表の下では政権奪取や当選はおぼつかないと考え、僅差とはいえ、菅直人前幹事長を選んだ。鳩山氏に勝利をもたらしたのは、地方のサポーター票である。そして、地方の支持なるものは、サポーターの投票率が五一パーセントだったことに示されるように、堅く組織され、動員された人々、有り体に言えば旧同盟系の労組票であった。そして、鳩山氏はその恩返しとばかりに、旧民社党グループの束ね役、中野寛成氏を幹事長に任命した。批評するのもばかばかしくなるくらいの愚かな選択である。今時、自民党でもこれほど露骨な論功行賞はしない。鳩山氏は代表に選ばれた直後に、政治家としての不適格さを露呈したのである。

 もはや鳩山氏は死に体である。この原稿が活字になる頃には、民主党の執行部人事も一応決着していることだろう。しかし、中野氏起用によって生じた鳩山不信はもはや除去不可能なものである。議員の多数意思にも、世論にも反して決められた代表の下で、民主党の政治家が生き生きと活動できるわけはない。鳩山氏は、自らの不明を恥じ、代表さらには議員の職を辞するくらいのことをしなければ、民主党の被った打撃を回復することはできない。もちろん、彼にはそんな度量はないだろうから、民主党はこれで終わりということになる。

なぜ日本では野党が育たないのか

 民主党はかつての新進党の末期に似てきた。鳩山、反鳩山の争いが起これば、この党は分裂するかもしれない。思えば、九〇年代以来日本における政党再編成の動きはほとんど野党の側で行われてきた。権力を持つ自民党はわざわざ分裂する必要などないわけで、それは当然かもしれない。それにしても、自民党に対抗できる野党を作り出そうという掛け声は十年来叫ばれているのに、実際の野党結集は賽の河原の石積みのような状態であり、政権交代の必要性を叫んできた私も、もう疲れてきた。一体なぜ日本では野党が育たないのだろうか。

もちろん、政治家としての志の問題もある。野党第一党という小成に甘んじ、矮小な権力争いをすることを政治と心得る人がいるから、今回のようなドタバタ劇が起こる。しかし、政治家に心構えを説いても空しいだけである。知的な意味での戦略が野党には必要である。

 その戦略を考える際に、まず自民党という巨大な権力の塊について分析しておかなければならない。野党に同情的な議論をするならば、自民党がつねに権力保持を最大の目的とし、軸となる政策を持たないことこそ、野党不在の原因である。たとえて言えば、西ヨーロッパの政党は固体のようなものである。何らかの理念に基づく凝集力があり、これを壊す、倒すということについてもイメージは浮かびやすい。しかし、自民党は液体のようなものである。液体は器にあわせて形を変え、これを壊すことはできない。権力を保持するためなら何でもありという体質は、九三年の下野の経験によって一層ひどくなった。矛盾することを言って恥じることはなく、主張に対して責任を取るという感覚を持たない自民党に対して、何か政策論争を仕掛けてこれをうち負かすということの現実感はわいてこない。構造改革をめぐる推進派と抵抗勢力の戦いを見ればわかるように、政策をめぐる党の矛盾自体を見せ物、売り物にしてまで国民の耳目を引きつけようというのが自民党である。

 確かに民主党の若手には優秀な人材がおり、政策論争をさせれば自民党よりもすぐれている政治家も多いだろう。メディアには報道されないが、それなりにまじめに政策を考えている政治家がいることは認めよう。しかし、政策論争で弁が立つから、政治的選択肢としての期待が高まるわけではない。自民党が体現しているアンシャン・レジームと本気で闘おうとしているかどうかが、野党が国民の信頼を得ることができるかどうかの鍵である。野党に対する期待や信頼が高まらないのは、闘う気力もなく、政策論議にふけっているからではないか。民主党代表選挙における若手候補者の談合による一本化は、その現れである。最近の地方政治における大きな変化を見れば、田中康夫氏に典型的に現れているように、改革派の知事たちが勝利した過程では、政策論よりも闘いの気合いがリーダーの資質として最も重視されていることがわかるであろう。

闘いの場はどこか

 民主政治における最大の闘いは、選挙である。今月予定されているいくつかの補欠選挙で、鳩山新体制が国民の評価を受ける。しかし、この補欠選挙の多くは、もともと自民党議員の疑惑や不祥事による辞職を受けたもので、野党有利は当たり前である。このような選挙で勝ったからといって自慢にはならない。現在の不安な経済状況や北朝鮮との外交交渉の長期化を考えれば、当面解散総選挙という決戦はない。民主党にとって最も重要な闘いの場は、これからの地方選挙および来年の統一地方選挙である。

 今の野党は国会の中だけで政府、自民党に対決している。地域の現実を見れば、野党も利権政治の片棒を担ぎ、アンシャン・レジームを支えている。人々の身近な政治において既得権にしがみついて、むしろ変革を邪魔しているような政党が、国政の転換の主役としての期待を集められるわけがない。

 民主党代表選の候補者を集めた市民団体主催の討論会で、鳩山氏は長野県知事選挙に対する民主党の取り組みを「反省している」と述べた。これはもちろん、羽田孜特別代表の地元にいる民主党系列の地方政治家に遠慮し、田中康夫知事を本格的に支援できなかったことについての総括である。言葉で反省することは誰にでもできる。これからの地方選挙で、民主党系の地方政治家と正面から喧嘩してでも、利権の構造を崩す闘いができるかどうかが問われている。

 最近注目を集めている改革派と呼ばれる知事たちは、中央官僚、地方の役人気質、利権の構造など様々なものと闘っている。理念を掲げて闘う姿勢があるからこそ、これらの知事は組織的基盤がなくても、また議会に多数与党がいなくても、住民の世論という強い基盤に立って自らの政策を実現できている。

 地方のことは地方に任せるのが分権を推進する民主党だという珍妙な言い訳はもうやめにすべきである。知事選挙と政令市の市長選挙では相乗りはしないという原則を立て、改革を実現できる清新な候補者を擁立し、地域における利権の構造と体を張って闘うという実績を積み上げることなしに、野党に対する信頼感は高まることはない。自民党と闘うのは、地方での闘いによって利権政治の基盤に切り込んでからの話である。私は、民主党という形のままで政権交代を起こせるなどと楽観はしていない。それにしても、日本政治を変えたいという政治家はまず地元に戻って、足元からアンシャン・レジームと戦うべきである。

2004.01.16 Friday 13:16

02年9月:長野県知事選挙の教訓

 田中康夫前長野知事に対する不信任決議と知事失職を受けて行なわれた出直し選挙において、田中氏が圧勝した。この選挙の意味をかみしめることによって、今後の地域にとっての政策課題と、政治構造の変革の方向が見えてくるように思える。まず確認しておくべきことは、自治体における首長と議会のあるべき関係である。

 そもそも今回の長野県の場合、議会による知事不信任は大義名分なき政争であった。不信任という制度は、議院内閣制の国と二元代表制の地方とでは、まったく意味を異にする。理論上、国政において内閣は国会に責任を負うのであり、国会の信託に反した内閣に対して国会はいつでも不信任を議決できる。しかし、地方自治体において首長は住民から直接選ばれるのであり、議会に対して責任を負うわけではない。議会による不信任は、首長によほど大きな失政や非行があった場合に限られる。今回の不信任劇の出発点であった田中氏による「脱ダム宣言」は、当初の公約である公共事業見直しに沿ったものであった。知事が政策的責任を果たしたかどうかは、任期をまっとうした時に県民が選挙で評価すべきである。政策問題で議会が主張を不信任するというのは、議会権限の濫用である。今後多くの自治体で首長が改革を進めようとするときに、古い政治構造に依拠した議会が抵抗することがあるかもしれない。しかし、議会の役割は条例や予算の審議を通して政策論議を深める点にあることを確認する必要がある。

公共事業偏重の地域政策に決別するとき

 今回の知事選挙によって長野県民の意思は明確になった。それは長野に限らず、似たような問題に直面している多くの地方の住民の意思でもあるだろう。県民は、田中氏を選ぶことによって、大規模開発を梃子にして地域経済の浮揚を図るという古臭い発想にとらわれている議会に対して不信任を突きつけたということもできる。従来の公共事業を中心とした地域経済政策に終止符を打つべき時にきたことを、住民自身が認識していることをこの選挙結果は物語っている。とりわけ、田中氏が公共事業に依存する度合いの高い農村部においても圧勝したことは、今まで政治の力に頼ってきた当の住民さえも、変化を求めていることを意味している。

 現在日本の地方は、中心都市も農村部もおしなべて疲弊している。根本的な原因は、経済のグローバル化の中で地方における雇用の源であった農業や流通業が衰弱していることにある。しかし、本来そうした傾向に歯止めをかけ、地域を支えるべき政策が逆に地域の疲弊を加速したことにも目を向ける必要がある。九〇年代後半、景気対策という名のもとで膨大な予算が使われた。それらは地域の再生のための政策ではなく、当時の建設省や農水省を中心とする巨大公共事業官庁の延命のための政策ではなかったのか。また、中央と地元の間でブローカーとして暗躍した族議員に新たな利権を提供しただけではなかったのか。おりしも省庁再編や財政構造改革の動きが表面化しており、官僚は自らの仕事を守ることに躍起になっていた。また、小選挙区制の導入と自民党を脅かす新進党という野党の存在を前に、族議員も自らの権力を守ることに必死になっていた。

 このように保身を図る官僚や政治家にとって、景気対策や地方の救済は格好の材料を提供した。そのもっとも醜悪な事例は、コメの市場開放に伴う農家の打撃を補償するために打ち出された六兆百億円の農業対策費であった。当時中央で政策を作っていた官僚や政治家に地域の素顔が見えていたとは思えない。役に立つかどうかは別として、事業規模を膨らませること自体が、中央官僚にとっての目的となっていた。

 地方では膨れ上がる景気対策予算を執行することに悲鳴をあげていた。特に、毎年のように年度後半に十兆円規模の補正予算が組まれ、公共事業が積み上げられたことが行政の混乱を招いた。地方では国から与えられた補助金や国から示された単独事業を消化することがそれ自体目的となったのである。北海道ニセコ町の逢坂誠二町長の経験によれば、当時地方財政計画に盛り込まれた地方単独事業の金額を達成するために、自治省は単独事業の伸び率が十%以下の自治体に理由書を出せと迫っていたそうである。

 金を使うこと自体が目的になれば、その政策が地域に本当に役立っているかどうか、それが将来の地域にどのような影響を及ぼすかをじっくり考えるひまはない。私は本欄で、日本の行政における政策の需要・供給のミスマッチという問題をしばしば指摘してきた。この問題は、九〇年代後半にいっそう深刻化したということができる。長野県の場合、オリンピックという国家的プロジェクトがあり、一種の興奮状態にあったため、その問題はより極端に現れたのであろう。かくして、地方財政の破綻、地域経済の建設業依存体質の悪化という帰結がもたらされた。九〇年代後半にいやというほど行われ、多くの無駄を作り出した公共事業による景気対策をこれ以上繰り返しても効果が現れないのは当然である。

脱ダムの具体的展開を

 現在小泉政権が進めようとしている地方制度改革や公共事業改革からは、「国から地方に与える金はない」とか「コストのかかる地方にはもう人は住まなくてもよい」というメッセージがそこはかとなく伝わってくる。しかし、日本はシンガポールのような都市国家になれるはずはない。国から地方への補助であれ、自治体間の財源移転であれ、大都市から地方への資金の移転はこれからも必要である。もちろん、今までのような野放図な補助金や交付税によるばら撒きを続けることはできない。しかし、中央官僚の省益追求を廃絶し、地方が身の丈にあった地域政策を考えられる環境を整えれば、おのずと政策は適正な水準に収斂するのではなかろうか。

 脱ダム宣言はそのような地方からのイニシアティブの象徴である。田中氏が目指しているのは、地域の自然や産業・文化の伝統の上に、小規模な公共事業を行なって、地域の中での経済循環を作り出すことであろう。また、政治手法の面から見れば、脱ダム宣言は脱官僚支配宣言でもある。真に地域の利益を考える叡智を持たず、政策の失敗ばかり繰り返してきた中央省庁の官僚に対しては、縁切り宣言をして当然である。

 再選された田中知事には、この際日本の集権官僚支配の矛盾をあぶりだすためのトリックスターになって欲しい。ダム事業を中止した場合に国からの補助金を返還せざるを得なくなり、県の財政を圧迫するというのが県議会による田中批判の要点であった。しかし、鳥取県、岩手県など類似の公共事業中止の事例においては、県は国に対して補助金の返還はしていない。仮に国土交通省が一罰百戒のために補助金の返還を求めてくるならば、田中知事は堂々と受けて立てばよい。開き直って返還はしないと主張し、国に裁判を起こさせればよい。そして、今までの補助金行政や公共事業の弊害を訴えるべきである。また、心ある議員や職員を束ねて改革の主体を作ってほしい。

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