2011.12.26 Monday 13:24

我々はどの程度の民主政治を持っているのか

 

 多難な一年だったと振り返っているところに、北朝鮮から金正日総書記の急死というニュースが飛び込んできた。この機会に金正恩氏の新体制が経済的困窮を脱するために、国際社会との協調の路線を取ることを願うばかりである。

 テレビで北朝鮮の人々が指導者の死を嘆き悲しむ様子を見ると、暴君の死をなぜかくも大げさに悲しむのかといぶかしく思う。あの人々はマインドコントロールされているのかと気の毒に思う人もいるだろう。しかし、隣の独裁国家を見下しても、それで日本がよい国になるわけではない。むしろ、今年起こった様々な出来事に照らして、一見自由な日本の社会で、私たちがどの程度の民主政治を持っているか、考え直す必要がある。

 今年最大の事件は、東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故である。地震と津波は自然現象であるが、災害に対する救援策を考え、実行すること、原発事故の原因を究明し、安全対策を取ることは、人間の仕事である。一連の対応の過程に、日本の政治や行政の能力が現れた。

 ここで露呈した最大の問題は、原子力政策を決定、実行する過程に民主主義が欠如していたということである。原発事故に関しては、事実を国民に知らせない、希望的観測を振りまいて国民を欺くなどの点で、日本の政府に大本営体質が残っていた。それが証拠に、原子炉のメルトダウンに関する公式発表が事故後2か月経った時だった。原子炉が地震によって損壊したのか、津波によって破壊されたのかという基本的な事実さえ、究明されていない。仮に地震によって破壊されたのであれば、他の原発も浜岡原発同様危険とみなされ、停止を余儀なくされることになる。他の原発を温存したいから、津波によって壊れたことにしているのではないかという疑念を払拭できない。要するに、経産省の官僚は、国民の生命、健康という価値よりも、特定業界の利益を確保することを政策目標に据えているとしか言いようがない。

 地震、津波の被害に対する復興策も遅れている印象がある。閣内で政策決定に参加した片山善博前総務相はその理由について、財務省が財源の目処が立たなければ補正予算を組めないと突っ張ったからだと説明している。片山氏自身は、救急車で病人が運び込まれた時に、治療費の目処が立たなければ治療しないなどということはあり得ないと言って、財務省と対立したが、他の閣僚には片山氏に同調する声がほとんどなかったそうである。

 官僚組織というものは、目先の目的だけを追求するという性を持っている。経産省が電力業界を保護し、財務省が形式的な健全財政にこだわることは、官僚らしい行動である。問題は政治の指導力である。大局的な判断に基づき、官僚組織に目標を設定することは、政治の役割である。民主党は、政治主導を叫んで政権交代を起こしたはずである。しかし、こうした国難に当たって政治家は官僚の視野狭窄を是正できず、官僚の省益追求を放置している。

 北朝鮮の様子を見て分かるように、民主主義と独裁の最大の違いは、多様と一様である。一様な国では、支配者が倒れた途端に方向喪失に陥り、国は危機と混乱に直面する。これに対して、日頃から多様な議論が行われ、ある政策が間違ったら、速やかに他の見解に基づく政策転換が行われるというのが、民主主義の強みである。多様性があるからこそ、民主主義は危機を乗り越えられるのである。あれだけの大事故を起こしながら政策転換が進まないというのは、日本の民主主義に欠陥が存在することを物語る。私たちには表現の自由や集会結社の自由が保障されている。それを十分生かして、多様な議論を積み重ねる中から、国の針路、政策の方向を決めることに、改めて取り組まなければならない。

 来年は消費税率の引き上げ、TPPなど、まさに私たちの生活や社会のあり方に大きな影響を与える政策決定を迫られる。国民にも、言論機関にも、考えて議論する決意が必要である。

山陽新聞12月25日


2010.11.01 Monday 00:55

民意に応える政治とは

 テレビの大河ドラマ、竜馬伝を時々見ている。史実からかけ離れた誇張もあるのだろうが、日本を変えようという若者の志には感動する。それにしても、革命家にとって革命の成就を見ることは必ずしも幸福なことではない。西郷隆盛など維新の功労者の一部は新政府に反旗を翻すこととなった。竜馬をはじめ、高杉晋作、吉田松陰などは維新を見ることなく死んだから美しく見えるということも言えるのかもしれない。

 そんなことを考えるのも、民主党の最近の混迷が目に余るためである。政権交代の旗を振ってきた私など、大げさに言えば身の置き所がない。九月の代表選挙は権力闘争という意味では盛り上がったが、菅政権の政策路線の明確化や指導力の強化には全くつながっていない。衆議院北海道五区の補欠選挙で大敗したばかりだというのに、岡田克也幹事長は臆面もなく企業献金の受け入れを表明した。小口の企業献金を受け取ることはマニフェストでも否定していないと言うが、それは屁理屈である。企業献金の解禁の背後には、今まで自民党の支持基盤を構成していた各種の業界団体を民主党の側に取り込もうという思惑があると報じられている。それが本当なら、民主党はもう一つの自民党に成り下がるだけである。

 民主党は民意に応える政治を実現すると同時に、民意そのものを吟味するという両面の課題に直面している。民意に応えるとは、昨年の総選挙で示した政策を実現することに他ならない。もっとも、財源問題に代表されるように、マニフェスト自体が詰めの甘いものだったので、そのまま実現することはできない。それにしても、鳩山前首相が打ち出した「命を大切にする政治」、「居場所と出番のある社会」などのスローガンは、菅政権が引き続き目指すべきものである。追求すべき価値観さえ明確になれば、多少の修正を提起しても、議論は進むであろう。

 菅首相は、政権交代に希望を託した国民の声よりも、一度も民主党に投票したこともないし、政権交代など起こってほしくないと思ってきた人々の声を必死で聞こうとしているように思える。法人税減税論議など、その代表例である。企業収益が増えても労働者の賃金が減少したことは、小泉政権時代の「いざなぎ超え」と言われた景気回復が示している。今必要なのは、経済界の短期的利害に振り回されることなく、産業のイノベーションのための道筋を描くことである。

 他方、民意そのものも暴走する懸念がある。小沢一郎前幹事長の資金問題をめぐる検察審査会の判断はその一例である。強制起訴を受けて、多くの新聞は小沢氏の議員辞職を求める論説を書いた。しかしそれは民主主義の根底を脅かす議論である。検察審査会は、検察官が有罪を立証できないと判断した事案について、公判を求めただけである。その程度の不確かな民意によって政治家の政治生命が絶たれるという前例を作ってはならない。メディアが一方的なイメージを流布し、そのイメージに基づいて世論が形成され、政治家や行政が世論を忖度して動くことは、決して本来の民主政治ではない。

 民主党の指導者は、民主政治の道理を自ら明らかにしたうえで、民意への対処の仕方を明確に示すべきである。重要な政策については国民との約束を果たすのが民主政治の基本である。同時に、法的責任は民衆感情とは切り離し、事実と法に基づいて明らかにすることも民主政治の重要な要素である。政治の刷新を求める確かな民意に応えるためには、法的責任の筋道は曲げず、同時に疑惑をもたれた政治家が進んで情報を提供し、自らの政治手法を説明することが必要である。政策も政治手法も自民党時代への回帰ということになれば、その後に来るのはいらだった民意を最大限利用するデマゴーグである。民主党には危機感が必要である。(山陽新聞10月31日)


2010.06.30 Wednesday 00:20

参議院選挙の争点

 鳩山政権の崩壊、菅政権の誕生、そして民主党支持の急速な回復と、この1か月ほどの間、政治は目まぐるしい動きを続けてきた。私なども、鳩山退陣の時には表紙を替えただけで民主党支持が戻るなどと安直なことを考えてはならないと、民主党に警告を発していたのだが、その予想は外れた。

 民主党支持のV字回復は、鳩山・小沢には幻滅したが、政権交代自体にはまだ期待しているという民意の表れである。国民は寛大にも、民主党に2度目のチャンスを与えた。3度目はない。菅政権が実績を上げることができなければ、国民は政党政治そのものに不信を抱くことになる。今、鹿児島県阿久根市の市長が何かと話題を呼んでいるが、あの種の独裁的なリーダーに捨て鉢な希望を託すという現象が国レベルでも起こるかもしれない。

では、民主党は最後のチャンスをどのように生かすべきか。また、今回の参議院選挙をそのためにどのように位置づけるべきか、考えてみたい。この参院選の最大の意義は、政権交代から9か月経って、初めてまともな政策論争ができる機会が訪れたという点にある。昨年の総選挙では、政権交代自体が唯一の争点となった。半世紀に及ぶ自民党政権を倒す機会だったので、それもやむを得なかった。民主党は政権交代を全面に掲げ、政権交代によって何を実現するかという政策面の準備を十分しなかった。もちろんマニフェストは作成したが、政権運営の基軸になるレベルのものではなかった。その未熟さは、予算編成や税制改正の議論の中で、たとえば揮発油税の暫定税率の扱いや高速道路無料化の進め方などに関して露呈された。

政権をまったく経験したことのない政党が政権綱領を作るのだから、多少詰めが甘いのも仕方ない。初めての政権交代だから試行錯誤がつきまとうのもある程度やむを得ない。問題は、政権運営の経験の中で、自らの誤りに気づき、これを自分で修正できるかどうかという点にある。

菅首相が選挙に向けて、いささか唐突であるが、財政健全化や消費税率の引き上げの必要性を提起した。手順が違うという批判もあるが、私は菅首相の提起を、今までの政権運営の誤りから学んだ成果として、肯定的に評価したい。民主党は昨年のマニフェストで無駄を省いて子ども手当などの財源を作り出すと訴えていた。しかし、実際に政権を取って予算編成をすれば、そう簡単な話ではないことが分かったはずである。マニフェスト違反という非難を浴びせるよりは、我々がこれからどのような社会を造り出そうとするのか、そのために財政基盤をどのように再建するのか、大枠に関するまじめな議論が始まったと評価すべきである。

もちろん、民主党の変身をただ肯定するわけにはいかない。今までの民主党政権の根本的な欠陥、マニフェストにおける理念の不在という問題を乗り越える意欲があるかどうか不明だからである。昨年のマニフェストは項目の羅列に過ぎず、民主党がどのような社会を目指すのか、基本的な理念が不明であった。だから、たとえば子ども手当をもらっても、もらう側は手当の意義が理解できず、せっかくの画期的な政策にもかかわらず、国民の評価は低い。

国民の負担増に関する議論を進めるためには、政党、政治家はより一層明確な理念を掲げる必要がある。菅首相が消費税率の引き上げを呼びかけるのはよいとして、それがどのような社会を建設する財源になるのか、具体的に説明しなければならない。みんなで負担し、みんなが受益する福祉国家を作るための税制改革なのか、財務官僚の口車に乗せられて財政の帳尻を合わせるための増税なのか、国民はまだ納得していない。参議院選挙は、政権選択に直結しないという意味では、自由な論争をする好機である。これからの選挙戦の中で、そのような論争を深めてほしい。(山陽新聞6月29日)


2010.01.11 Monday 03:23

鳩山政権は通常国会にどう臨むべきか

 藤井裕久財務相が辞任し、通常国会に臨む鳩山政権の態勢が揺らいでいる。小沢一郎幹事長の政治資金をめぐる疑惑に対する検察の追及も進められており、通常国会における野党の攻撃材料には事欠かない。わずか4か月前に、国民の大きな期待の中でこの政権が発足した頃を思い出せば、民主党および政権の失速に愕然とするばかりである。

 各種の世論調査によれば、鳩山由紀夫首相に対する国民の視線は厳しくなったが、民主党に対する支持はそれほど落ちてはいない。政権運営や政治家の体質に対して不満もあるが、せっかく起こした政権交代なのだから、少し長い目で見ようというのが、今の民意であろう。長年続いてきた政治や行政の仕組みを一瀉千里に変えることは難しいという現実主義が、国民の間には存在している。だとすれば、鳩山政権はそのような我慢強い国民の期待を的確に読み取り、政権の立て直しを図らなければならない。

 通常国会では、予算と関連法案の審議が最大の課題となる。国会論戦に誠実に取り組み、鳩山政権が目指す理念、ビジョンを具体的に語ることこそ、政権立て直しの王道である。この政権が創設しようとしている子ども手当や農家戸別保障などの新機軸は、社会に活力を回復し、地域の疲弊を止めるために、きわめて意義深い政策転換である。その点は高く評価したい。

しかし、昨年末の予算編成過程では、こうした政策の意味について十分なアピールが行われなかった。制度の細部に関して最後まで異論が交錯し、結局小沢幹事長が乗り出して物事をまとめたという印象であった。今鳩山首相がなすべきことは、施政方針演説や予算審議の中で、どのような理念に基づいてこのような政策を打ち出したのか、国民のどのような層に負担を求めていくのかを、具体的に語ることである。

菅直人氏は、昨年末に日本経済の現状をデフレと認定した。デフレとは経済が収縮するだけではなく、人心の収縮をも意味している。国民が未来に対して意欲と希望を持てるようにするためには、政治指導者がどのような社会を目指すのかを語ることが不可欠である。マニフェストに掲げた項目の中でどれを実現できなかったかなどというのは、些末な議論である。たとえば、揮発油税の暫定税率の引き下げという公約を反故にしたことは確かに裏切りだが、環境を軸とした新たな産業の育成という大目標を掲げて、化石燃料に対する税金をそのための重要な財源と位置づけるといえば、国民も納得するのではなかろうか。マニフェストの中には十分練られていない政策が入っていたことは事実であり、政権発足以後の政策展開の中でこれを見直すことを率直に説明すればよい。

今年は夏に参議院選挙が予定されている。これに向けてマニフェストを作り直す作業も必要となる。大きな気がかりは、民主党における政策論議が幹事長室に一元化され、議論の活気がまったく伝わってこない上に、議論の過程も著しく不透明になったという点である。党として参院選に向けて政策を作る作業は、内閣とは別に取り組まなければならない。政務調査会を廃止した民主党は、党としての政策論議の機関を持っていない。小沢幹事長は選挙対策といえば組織を固め、候補者を選挙区に売り込むことだと考えているようだが、政策なしに選挙を戦うことはできない。政務三役についていない与党の議員を再結集して、政策論議の仕組みを作り直すことは急務である。

半世紀以上に及ぶ自民党と官僚による統治の仕組みを組み替えることは大仕事である。途中に試行錯誤があるのは当然である。発足以来4か月の様々な経験や失敗を虚心に反省し、国民に試行錯誤の実態を明らかにすることが、むしろ政権に対する信頼を回復するためには必要である。通常国会を1つの契機として、民主党は自らの政権運営を点検し、当初の思いこみにとらわれず、内閣と党のガバナンス(統治)のあり方を柔軟に工夫すべきである。(山陽新聞1月10日)


2009.08.17 Monday 00:01

政党が掲げるべきビジョンとは何か

総選挙に向けて各党がマニフェスト(政権公約)を発表し、それに対する議論も賑やかである。その中でしばしば聞かれるのは、政党がこれから日本の目指すべき国家像、社会像を打ち出せていないという不満である。確かに、マニフェストを読んでも、国民に対するサービス、給付の拡大は訴えられているが、数字の羅列という印象をぬぐえない。

マニフェストとは、マルクスが共産党宣言(communist manifesto)でも使った用語であり、本来は政治的な理想を打ち出し、人々を鼓舞するパンフレットのことである。現在の日本におけるマニフェスト論議では、数値目標や財源が過度に強調されているので、政党の側も萎縮した感がある。メディアも、官僚的発想で政策を論じることに荷担している。

それにしても、なぜ政党や政治家が理想を唱えることが難しくなったのだろうか。一つには、経済や社会の構造が複雑化し、単純な政策目標を唱えることが無意味になったという事情がある。私も、毎週日曜日に放映されているテレビドラマ、「官僚たちの夏」を見て、かつての高度成長期の日本では官僚も政治家も志を持っていたと感慨にふけっている。しかし、あの時代はひたすら経済成長を遂げることが自明の政策目標であり、資本や労働力のグローバルな移動などという厄介な問題は存在しなかった。それに比べて、今の時代、政策を作る際に考えるべき事柄は飛躍的に増え、複雑になっている。その点で、今の政治家は気の毒である。

しかし、目を外に転じれば、政治家の唱える理想は歴史を切り開く原動力となっていることが分かる。アメリカのオバマ大統領は、格差社会から中産層の復活を目指して経済政策を実行している。そして、富裕層からの増税を打ち出している。また、環境面での新産業の創出を訴えている。さらに、対外政策に関しては、核兵器のない世界を目指すことを訴え、原爆投下の道義的責任を認めるという画期的な演説を行った。これらは、実現できるかどうか分からない目標である。しかし、一見困難でも、高い理想に向かって前進する政治家の姿に、国民も、あるいは世界の人々も、よりよい世の中を作ることができるかもしれないと勇気づけられるのである。

日本の政党が訴える子育て支援や環境政策が、新たな社会像にまで昇華しないのは、次のような理由があると私は考えている。

第一に、現在の貧困や不平等に対する政治家の怒りが伝わってこない。自殺者は毎年三万人を超え、家庭の経済事情のため進学をあきらめる若者や、介護のために仕事を辞めざるを得ない人が増えている。こうした人々の無念を政治家はどう受け止めるのか。このような苛烈な社会に対する怒りこそが、あらゆる政策論議の前提となるはずである。その点で、政治家は自らを安全地帯に身を置いて、政策論議をもてあそんでいる感がある。

第二に、漠然と国民全体を代表するのではなく、具体的に誰の思いを代表するのかという政治家の思い切りが伝わってこない。誰にもいい顔をするということは、何もできないということである。たとえば、過去数年の景気回復の中で大いに潤った富裕層や企業に対して、新たな税負担を若干求めるという政策を具体的に打ち出すことができれば、政策が目指すべき社会のイメージは明確になる。

第三に、文明論が欠けている。民主党は、二酸化炭素の排出量をより大幅に削減することを訴えているが、それならばなぜ高速道路の無料化や揮発油税の暫定税率の廃止を言うのか。化石燃料のコストを引き上げ、その財源で低炭素社会のための基盤整備を行うことこそ、二一世紀型の環境政策である。文明の転換にふさわしい政策の発想が必要である。

いよいよこれから本当の選挙戦が始まる。マニフェストはあくまで資料であり、金科玉条にすべきではない。政治家の生きた言葉による論争を通して、二一世紀の日本の姿を形作ってもらいたい。(山陽新聞8月16日)


2009.03.02 Monday 00:00

日本政治の異常さ

 各紙の世論調査で、内閣支持率は一〇%程度にまで落ち込み、不支持率は八〇%に達しようとしている。民主政治において世論調査の動向に従うことが常に善であるわけではない。それにしても、外交で点を稼げば支持率は好転するだろうと楽観的に考え、内政に関する統治能力を失ったまま日本を代表して、外国首脳と物事を議論するという麻生首相の姿勢を見ると、なぜ世論があなたに不信任を突きつけているか、理由を考えろと言いたくなる。

 私は二月前半、五年ぶりにアメリカを訪れて、オバマ政権の滑り出しを見ることができた。その時の最大の争点は、景気刺激策に関する法案審議であった。日本人にとって情けないことに、賛成側も反対側も、バブル崩壊以後の日本の政策を引き合いに出して、自分たちの主張の根拠としていた。オバマ大統領は、日本の経済対策が、あまりに小さく、遅きに失したことこそ、長期停滞をもたらしたと主張し、アメリカはその轍を踏まないよう、大規模な景気刺激を、迅速に実行すると訴えた。これに対して、野党である共和党の議員は、バブル崩壊後に日本政府が展開した公共事業はほとんど効果がなかったとして、オバマ政権の大規模な財政出動も効果は期待できないと反論していた。どちらにしても、日本は悪いお手本である。こうした議論を見た直後だけに、麻生首相がオバマ大統領に招かれた最初の外国首脳だと、得意そうにホワイトハウスに入る様子が、ことのほか哀しかった。

 現在の経済状況は、異常である。私は中学生の頃、第一次石油危機を経験し、経済の暗転を子どもながらに実感した。しかし、当時は高度成長の余韻が残っており、企業は従業員を抱えながら危機を乗り越えた。今は、余剰人員とみなされた非正規労働者は、容赦なく路上に放逐される。企業は従業員を解雇できるが、国や自治体は住民を放逐することはできない。政府は生活保護などのコストをかけて、人々の生活を最後に支えなければならない。この際、多少の財政赤字は増えても、まず国民の生活を支え、人々が生きる希望を見出せるような社会を取り戻さなければならない。

 経済の異常さを的確に認識できず、有効な対策を打てないところに、日本政治の異常さがある。もちろん、政府には言い訳もあるだろう。野党が参議院を支配している以上、迅速な政策決定はできないのも事実である。しかし、問題は政府の正統性という根本的な次元にある。アメリカの場合、大統領選挙によって国民がオバマを選んだという正統性があるからこそ、政府は日本円で数十兆円に上る経済刺激や金融対策を打ち出せるのである。

 日本の場合、残念ながら麻生政権には正統性がない。酔っぱらって醜態をさらし、国の名誉を傷つけた財務大臣を即座に首にできないような首相には、国民は何も期待していない。麻生氏はただひたすら首相の座にしがみついているだけだということが国民に見えるからこそ、支持率は低下する。実効性のある経済政策を打ち出すためには、まず正統性のある政権を打ち立てることが不可欠である。麻生首相が国民のためにできることは、ただ一つ、速やかな解散総選挙の実施である。

 自民党はどうなってしまったのだろう。麻生首相の下では次の選挙が戦えないと叫ぶ政治家は何人かいる。しかし、このままでは国民に申し訳ないので麻生首相に辞めてもらいたいと言う政治家は一人もいない。自民党が保身に走れば走るほど、国民は自民党を見放し、政権交代の可能性はますます大きくなる。

 幕末と同じく、一つの体制が崩壊する時は、こうしたものかも知れない。アメリカでは、経済危機に当たって政治のリーダーシップが回復し、日本では経済危機ともに政治も沈没していく。今はその落差に嘆息するばかりである。(山陽時評3月1日)

2008.11.03 Monday 00:00

解散先送りとこれからの政党政治

 世界的な金融危機の中、日本の株価も暴落し、麻生太郎首相は解散総選挙を先送りする決断を下した。麻生首相誕生後も、内閣支持率の上昇は見られず、自民党総裁として勝てる見込みのない選挙に突っ込みたくないという判断も、仕方ないものであろう。しかし、麻生政権が来年度予算の編成を行い、困難な政策課題に取り組むだけの政治的な力を持っているのかどうかも不明である。国民の負託を受けていない政権に、野党を説得し、政策を推進することができるのだろうか。

 アメリカでは十一月の第一火曜日に大統領選挙を行うという決まりになっているので、政治家の思惑とは関係なしに選挙が行われる。そして、世論調査によれば、現時点では民主党のオバマ候補が共和党のマケイン候補に大差を付けている情勢である。アメリカでは今年一月の予備選挙開始以来、延々と選挙戦が展開されてきた。これは大変なコストを伴うが、同時に一年近い時間をかけ、全国をまたにかけて選挙戦を行うことで、候補者が鍛えられ、争点が明確になってきた。内政外交両面にわたるブッシュ政権の行き詰まりを打開することは、次期大統領にとって容易な課題ではない。しかし、国民に政策を訴え、国民から支持を受けたという正統性こそ、強力な政権運営の最大の原動力となる。まさに選挙こそ、民主政治のエネルギー源である。オバマ大統領が誕生すれば、格差貧困問題への対応がより強力に進められるに違いない。

 日本でも当面の経済対策は急務である。しかし、目先の景気だけが大変な問題なのではない。この一年ほどの間、社会の基盤がほころびていることを示す事件が相次いだ。将来に希望を持てない若者が死刑になりたいといって無差別に殺人を犯す。大学進学の夢を断たれた若者が駅のホームから人を突き落とす。障害を抱えた子どもの将来を悲観した母親がその子を殺す。家を失った人々の泊まり場所となっていた個室ビデオ店が放火され、大勢の人が亡くなる。妊婦が救急病院をたらい回しにされ、亡くなる。こうした事件は、政策的なサポートさえしっかりしていれば、予防できた、あるいは犠牲者を少なくできたものである。政治に関するあらゆる議論は、これらの死ななくてもよかった人の命を奪ってしまったこと、犯罪者にならなくてもすんだはずの人々を犯罪者に追い込んでしまったことを反省し、わびることから始まるべきである。

 政局よりも政策という麻生首相の判断は、一つの政治決断である。では、首相は現下の政策課題をどこまで真剣に考えているのだろうか。政策の不備ゆえにみすみす命を失った人々に対して、どれだけの心の痛みを感じているのだろうか。十月二十六日、首相は東京・秋葉原で就任以来最初の街頭演説を行った。秋葉原を、オタク文化のメッカと見るのか、連続殺人事件の発生現場であり、社会の歪みの象徴と見るのかで、政治家の基本的なものの見方が問われる。残念ながら、首相は若者文化に理解のあるところを示すことに一生懸命で、社会の歪みに対する感性は持ち合わせていないようである。

 百年に一度の大きな社会経済危機に立ち向かう政治指導者に必要な資質とは何か。それは、愛想の良さでもなく、若者にとっての話せるオヤジであることでもない。問題を正面から見据え、国民の悩みや痛みを引き受けるまじめさこそが、政治家に求められている。

 来年度予算の編成においては、年金に対する国庫負担増額のための財源措置、道路特定財源の一般財源化など、難問が目白押しである。その上に、景気対策や医療再建などの政策課題が重なっている。今ほど、政治家の理念が問われる時はない。過去六、七年の間、改革という名目で社会の基盤を破壊してきたことをどう総括するのか。その上で、これからの日本社会をどう立て直すのか。各党の政治家がまじめな議論を十分戦わせた上で総選挙になるなら、選挙が遅くなってもかまわない。(山陽新聞11月2日)

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