2015.07.13 Monday 12:56

安保法制に関する反対意見

 

安保法制に関する反対意見

                          山口二郎


1 戦後70年の中に安保法制を位置づける

 今年は戦後70年の節目の年であり、日本の来し方行く末を考える重要な機会なので、まず安保法制を戦後日本の歩みの中に位置づけ、その意味を考えてみたい。

 戦後日本の国の形が大きく変化した契機は、1960年のいわゆる安保騒動、あるいは闘争であった。当時の岸信介首相は憲法、特に9条を改正して国軍を持つことを宿願としていた。そのための第1歩として、安保条約の改定を図った。これに対して、空前の規模の抗議活動が起こり、数十万の市民が国会や首相官邸を取り巻いた。当時の人々が新安保条約を理解していたかどうかはともかく、人々は岸首相が体現する戦前回帰、戦後民主主義の否定という価値観に反発して未曽有の運動が起きた。安保条約自体は衆議院の可決により承認されたが、岸首相は退陣を余儀なくされた。

 自民党はこの騒動から重要な教訓を学び取った。憲法と戦後民主主義に対する国民の愛着は強いものであり、それを争点化することは大きなリスクを伴うという教訓である。岸の後を襲った池田勇人首相は、憲法改正を棚上げし、経済成長によって国民を統合する道を選択した。この路線は以後の自民党政権にも継承された。安全保障政策においても、憲法9条を前提とし、これと自衛隊や日米安保条約を整合的に関係づける論理が構築された。それが専守防衛という日本的平和国家路線であった。憲法9条の下で日本は自国を守るためだけに必要最小限の自衛力を持つという原理が確立した。海外派兵はしない、集団的自衛権を行使しないという原則は、そこから必然的に導き出されるものである。

 1960年代以降の自民党政権は、この原理を定着させ、軍事力の行使について謙抑的な姿勢を貫いた。まさに戦後レジームはほかならぬ自民党が作り出した体制であり、そのもとで日本は平和と繁栄を享受したのである。

 今回の安保法制に関連して、日本が他国の戦争に巻き込まれる恐れがあるという議論がある。戦後日本が戦争に巻き込まれずに済んだのはなぜか。それは、緊密な日米同盟のおかげではなく、日米安保条約の下、日本が集団的自衛権の行使を禁止していたからであった。この点は、1960年代末のベトナム戦争への対応をめぐる日本と韓国の違いを見れば明らかである。韓国は米韓相互防衛条約の下、アメリカにベトナムへの出兵を求められ、韓国軍はベトナムで殺し、殺されるという悲惨な経験をした。集団的自衛権の行使を否定した日本はベトナムへの派兵など、全く考慮する必要はなかった。1960年代の安保闘争で、市民が岸政権を退陣に追い込み、憲法9条の改正を阻止したことで、日本は戦争に巻き込まれずに済んだのである。

 20世紀後半に効果を発揮した日本的平和路線は、21世紀にも有効かどうかがいま問われている。確かに、この20年間の国際環境の変化は大きい。中国の経済発展と軍事力の拡大、北朝鮮の核開発など、日本に隣接する地域での不安定性は増加している。日本は自らの安全を確保するために、集団的自衛権の行使に転換する必要があるのだろうか。答えはノーであると私は考える。

 日本の領域を守ることは、個別的自衛権によって対処すべき課題である。この点を、安倍首相自身が「国民の理解を得るため」と称して76日に行ったインターネット番組で使われた表現を検討することで、この点を考えてみたい。首相は次のように述べた。

「一般の家庭でも戸締りをしっかりしていれば泥棒や強盗が入らない。また、その地域や町内会でお互いに協力しあって、隣の家に泥棒が入ったのがわかったらすぐに警察に通報する。そういう助け合いがちゃんとできている町内は犯罪が少ない。これが抑止力なんですね。」

 この点で、私は珍しく安倍首相と意見が一致する。国を家に例えるなら、戸締りをしっかりするのが自衛力整備である。だが、門の外まで出張っていって、悪者退治に加わることは自宅の安全に資する行為ではない。また、近隣の人々と協力し合うことは、地域の安全にとって極めて重要である。日本が協力し合う近隣とは、アメリカも含まれるだろうが、韓国、中国を抜きに、町内会は構成できないはずである。自衛力を整備しつつ、隣家との利害の違いは認識したうえで、隣家との共存のために話し合いをすることこそ、自宅の安全を高める道ではないのか。安倍首相のインターネットでの演説は、集団的自衛権の行使の理由を説明するものではなく、全く逆に、専守防衛と地域的協力が必要な理由を説明するものである。首相自身に、自分が何を実現したいのか、冷静に認識していただきたい。

 安保法制を推進する政府与党は、日本が集団的自衛権を行使することによって日米の同盟関係が一層緊密化し、抑止力が高まると期待している。しかし、これは希望的観測というものである。アメリカは日米安全保障条約第5条が定めるとおり、「自国の憲法上の規定及び手続きに従って」条約上の義務を果たすにとどまる。アメリカが大規模な軍事力の行使を行う際、憲法により、議会の承認が必要とされている。アメリカが中国との武力紛争を望んでいないことは明らかである。尖閣諸島の問題についても、アメリカは日本の施政権の保有は支持するが、領有権にはコミットはしていない。アメリカは常に、日中間の領土紛争は平和的に解決することを求めていることを忘れてはならない。

米中関係自体が決してうまくっているわけではない両国は戦争は何としても避けるという前提で、粘り強く対話しようとしている。それに引き替え、日本は中国との対話や相互理解はそっちのけで、自国が武力行使をする可能性を拡大すればより安全になると主張しているのは、政治的に稚拙である。

 

2 安全保障法制の内在的問題点

 次に、安全保障法制が抱える問題点について、考えてみたい。そもそもこの法案は、専守防衛を逸脱するものであり、憲法違反である。それに加えて、特に憂慮すべき点を指摘したい

 第1は、武力行使が可能となる状況の規定である。法案では、存立危機事態、重要影響事態という新しい概念が提示され、それぞれにおいて日本が集団的自衛権を行使できるとされている。しかし、国会審議においても、2つの事態の意味が明確に定義されることはなかった。状況がどの事態に該当するかを判断する際の考慮事項は例示されたが、実際の判断は政府が「総合的」に決めるという答弁しかなかった。これでは、存立危機事態も重要影響事態も、武力行使を制約する縛りにはなりえない。政府は集団的自衛権の行使に当たって、大きな裁量を手にすることになる。日本が他国の戦争に巻き込まれる危険性が高まるという批判は、この点を捉えている。

 また、自衛隊による後方支援活動について、それを行える場所と行えない場所の線引きはなくなった。従来は、戦闘地域と非戦闘地域という一応の概念的区別が存在した。この区別は、現場の指揮官が、他国軍隊の武力行使と一体化するおそれについてその都度判断することの困難を踏まえ、余裕をもって一律の判断ができるための配慮として設けられたものであった。今回の法制で、現に戦闘が行われていない地域において自衛隊は他国軍に対して後方支援が行えるとされている。自衛隊が行うと想定されている武器弾薬の提供や燃料の供給は武力行使と一体の行為である。この点で後方支援活動は憲法違反である。

第2は、あまりに空想的な希望的観測の上に法制が構築されている点である。重要影響事態における後方支援活動について、現に戦闘が始まったら撤収するから危険ではないと説明されている。これほど荒唐無稽な空論はない。現に戦闘が行われていない地域であっても、いつ何時本格的な戦闘が行われるかわからない。古来、戦争において糧道を断つことは戦術の常識であった。自衛隊が同盟軍に武器、燃料等の補給を行えば、相手方にとって自衛隊は敵軍である。当然、補給を断つ攻撃を仕掛けてくることは明らかである。後方支援の本質は兵站である。後方支援だから危険ではないなどという言い分は、日本政府が国民に気休めを与えるための机上の空論である。

後方支援であれ、他国の武力行使に一体化することは、戦争への参加を意味する。このことは、自衛隊員の危険を高める。また、日本国内に生活する国民の危険をも高める。アメリカによるイラク戦争に参戦したイギリス、スペインで、大規模なテロが発生し、多くの市民が犠牲になったことを忘れてはならない。私はテロを正当化したいのではない。戦争に参加する以上、相手方からの様々な攻撃を受ける危険があるという現実を、包み隠さず自衛隊員と国民に告知することが指導者の責務だと言いたいのである。

 

3 安保法制を契機とする民主主義の腐食

 今回の安保法制の議論を契機に、日本政治の劣化と、民主主義原理の浸食が明らかになっている。

 まず、安倍首相は野党の質問に対して、自分は総理大臣だから正しいとか、合憲・安全だと確信していると答え、それ以上議論を深めようとしていない。中世のヨーロッパ人は太陽が地球の周りを回っていると信じていた。確信の強さは、信じている事柄の正しさとは無関係である。根拠と論理を示して説明することが為政者の義務であるが、国会審議は空洞化している。

 また、自民党の高村正彦副総裁は、3人の憲法学者が衆議院の憲法審査会で安保法制を違憲と断じたことに反発し、憲法学者は憲法の字面にこだわるとか、学者の言うとおりにして平和が守れるかと述べた。学者の端くれとしてこれには断固として反論しておきたい。

 そもそも憲法学者が憲法の文言にこだわるのは当然である。それは、数学者が1+1=2という数式にこだわるのと同じである。高村氏の発言は、政治権力は論理をねじ曲げることもあるという含意を持っている。氏は1+1が為政者の意向次第で3にも4にもなるような独裁国家を作りたいのかという疑問を抱く。今年は戦後70年であり、天皇機関説事件から80年である。権力が学問を弾圧してから敗戦で国が滅びるまでわずか10年だったという事実を思い起こすべきである。私は、学者の言う通りにすれば国が平和になるとおごったことを言うつもりはない。逆に、政治家の言うとおりにして国が愚かな戦争に突入した経験もある。戦後日本を振り返れば、政治家と学者が異なった観点から議論をし、それらの議論が正反合の関係で日本的平和国家の路線を作り出したという成功体験があることをかみしめるべきではないか。

 先般の自民党文化芸術懇話会における沖縄差別や報道機関統制の発言は、自民党という偉大な政権政党の変質を物語る。あの会合で気勢を上げた政治家に共通するのは、実証性、客観性を無視して、自分の欲するように世界を解釈するという反知性主義の態度である。あの事件が発覚した直後、政府与党の首脳は、同懇話会に参加した政治家にも発言の自由があると擁護した。したがって、同懇話会の反知性主義は局部的現象ではない。

 国の安全を最後に担保するのは、冷静な状況認識と現実感覚を持った政治指導者である。政治家に反知性主義が蔓延する現状において、安保法制が成立し、日本が集団的自衛権を行使できるようになったら、日本の政府は日本の安全と国益を守るために、冷静な判断を下すのだろうか。武力行使の範囲が広がる一方で、政治家の現実主義的な判断能力は低下する。このギャップこそ、日本にとって存立を脅かす事態である。


7月13日 衆議院 平和安全法制に関する特別委員会 中央公聴会における意見陳述


2013.12.07 Saturday 15:16

衆議院内閣委員会における意見

この国会では戦略特区法案も成立した。私は11月14日、衆議院内閣委員会に呼ばれて、参考人として意見陳述を行った。議事録ができたので、ここに私の発言を紹介しておく。
批判の論点は大きく2つである。第1は、成長戦略が特定企業の私益の追求を補助するものであり、およそ公共的利益の観点からの検証がないこと。つまり、新自由主義的な人々が国家を私物化しているということである。
第2は、戦略特区が自治権の侵害につながる恐れがあること。特に憲法95条をすり抜ける形で、特定地域に特別法を制定することを可能にしている点である。
国家の私物化に関連して、三木谷浩史こそ戦後教育が生んだ私利私欲の権化と批判したら、自民党の委員席からも笑いが起こった。笑っている場合ではない。市場万能の新自由主義が公共性を解体していることについて、真面目に考えろと言いたい。こんな話をし出すと、昨今TPPを批判している保守派の論客と同じ雰囲気になってくるなあと、苦笑する。

 
衆議院内閣委員会 11月14日

私は、どちらかというと、この規制緩和路線に対して疑問を呈する側から、幾つか問題点をお話ししたいと思います。

 第一の問題は、この特区法の根本にあります、いわゆる第三の矢、成長戦略に関する疑問であります。

 既にいろいろな人が指摘しておりますが、この成長戦略、成長路線というものは、二〇〇〇年代に展開されました小泉政権下のいわゆる新自由主義的な構造改革の再現ということになると思います。その時代、確かに景気は戦後最長の拡大を続けましたが、同時に、労働者の賃金は下がり続ける、企業収益は上がるが賃金は下がるという現象が起こったわけであります。

 その分配の仕組み、あるいは雇用に関するいろいろなルールをそのままにしておいて、また今回、企業収益が改善しているとしても、一時金、大企業のボーナスはふえるかもしれませんが、普通の人々の生活に富が還元されるということは期待できないと思います。

 今回、安倍政権のもとで成長戦略がさまざまに議論されておりますが、この議論の仕方そのものについても私は大きな疑問を持っております。規制緩和はすなわち善なのかという疑問であります。

 特定の人の名前を挙げて恐縮ですが、産業競争力会議の委員をしていた三木谷さんという方、薬のネット販売の解禁について、一〇〇%解禁じゃないといって、委員を辞すると気炎を上げておられます。

 私は、楽天イーグルスの優勝には非常に拍手をしていまして、ああいう形のチャレンジ、競争というのは大いに結構だと思います。しかしながら、三木谷さんの言い分というのは、あたかも、楽天イーグルスはピッチャー中心のチームだから、楽天が勝てるように、ストライク三つでアウトじゃなくて、ストライク二つでアウトになるようにルールを変えろと言っているようなものであります。

 審議会の委員というのは、自分の企業、自分の利益をただふやすための道具なのか。これは、極めて根本的な問題です。医療、労働等の審議会においては、あらかじめ立場が異なることを前提として、それぞれの立場の代表者を入れ、それに中立、公益を代表する人が入り、全体として国のために何が必要か、公益とは何かという議論をする仕組みになっておりますが、今回の競争力会議等は、もう露骨に自分たちの利益を追求するということが展開をされております。これは、はっきり言って、公の解体あるいは国家の私物化とでも言うべき現象であります。

 戦後教育が私的な権利ばかり主張する人間を育てていって、公を尊重する気持ちが低下しているという批判が特に保守的な立場の議員の方々からよく聞かれますが、それに照らして言うならば、ああいう審議会であられもなく自分の利益を追求する人々こそ、戦後教育のもたらした所産だ。これに対して保守的な先生方はなぜ批判をしないのか。深谷隆司先生がネットでこの点については的確な批判をしておられましたが、そのような見識のある声をぜひ聞きたいと私は思っております。

 二つ目の問題として、今回の特区法案そのものについて特にきょうのほかのお三方とは違う観点から、すなわち、法律的な観点から少し疑問を申し上げたいと思います。

 憲法第九十五条では、一つの地方公共団体のみに適用する法律に関しては、その地方公共団体の住民投票による合意がなければ法律は制定できないと規定してあります。この九十五条の立法の趣旨は、国の法律によって特定の地方公共団体の自治を剥奪する、あるいは特定の地方公共団体の住民に対して法のもとの平等を侵害するということを防ぐという点にあります。

 今回の特区法案は適用する地方公共団体がまだ具体化されておりませんから、この特区法案そのものについて九十五条に基づく住民投票が必要だと主張するのは、やや無理があるだろうとは思います。しかしながら、その特区法ができた後、具体的に地域指定をして、雇用とか医療とか建築等々といった分野についてほかの地域とは違う基準を当てはめるということになりますと、いわば行政の意思決定によって特定地方公共団体の住民が本来持つべき権利を侵害するという危険があるわけであります。

 したがって、特区の地域指定あるいはその特区の中身でどのような規制緩和を行うのかということについて、地方からの意見を述べる機会を保障する、あるいは地方の側の同意を得るという手続を課すといった点でもう少し議論を深めていただきたいと思うわけであります。現状では、上からの主導で特区を指定する、そして特定地方公共団体について、ある人にとってはそれはビジネスチャンスの拡大かもしれないけれども、違う立場の人にとっては権利の侵害であるような事態が生じ得るわけであります。

 一国多制度という理念、これは、私自身もかつて論文の中で日本にも必要なアイデアではないかということは主張しました。

 ヨーロッパでは、スウェーデン等で一国多制度が進んでおりますし、イギリスではスコットランドの地方分権など、一つの国の中にいろいろなスタンダードがあるという改革は既にかなり進んでおります。この場合は、やはり下からの参加、提案に基づいて一国多制度が展開されているわけでありまして、そうすると、やはり自治体の創意工夫で多様な政策を展開していくという話になります。

 今回の特区は、いわば上からのリーダーシップの発揮というか、あるいは押しつけというか、住民あるいは地方不在の改革が進んでいくという懸念があります。したがって、特区の運用の中で住民や地方議会の発言権をどのように組み込むか。知事あるいは市町村長が会議に入るだけではやはり不十分でありまして、特区の具体的な中身、効果、予想される危険性等について地方の声をしっかりと取り入れるという工夫をしていただきたいと思うわけであります。

 さて、三つ目の論点として、特に、今回の特区法案の中で争点になりました、雇用をめぐる規制について、少し問題点を述べたいと思います。

 雇用市場の柔軟化、労働市場の柔軟化ということがずっと十数年来主張されてまいりました。その中で、ヨーロッパにおける成功例がしばしば参照されます。例えば、デンマークという国が一つのモデルであります。

 デンマークは、いわゆる社会民主主義の政権がいろいろな改革をする中で、労働市場の柔軟化、これはフレキシビリティーとソーシャルセキュリティーの二つの言葉を合わせて、フレクシキュリティーなどと言われるモデルをつくりました。

 私は、十年ほど前にデンマーク元首相のラスムッセンさんを日本にお招きしてお話を伺いました。その中で、ラスムッセンさんは、デンマークは世界で一番労働者を解雇しやすい国です、社会民主主義系の元首相がそういうことを胸を張っておっしゃるわけですね。ただし、同時に、デンマークは世界で最も国民が失業を恐れない国でありますとおっしゃいました。つまり、柔軟な労働市場の背後には、いわば解雇された、職を失った人が安心して次の仕事を探せるように、その間の生活を支える安定した基盤が存在しているということをラスムッセンさんは強調されたわけです。すなわち、失業給付、住宅、教育雇用訓練、医療、子供の教育等々、人間の生活を支えるさまざまな社会サービスが安定していて、常に必要に応じて供給されるという仕組みがあるからこそ、労働市場の柔軟化は可能になるわけです。

 今回の特区の話を聞きまして、私は、これはデンマークモデルのいいところ取りではないか、特に雇う側にとってのいいところ取りではないかという疑問を持つわけであります。

 雇用に関するルールを地域限定で緩和しますということなんですけれども、では、いわば流動化でもって仕事の安定性を失う、働く側に対するケアはどうなのかと。雇用保険とかさまざまな社会政策というのは、これはやはり国全体をカバーするいわゆるセーフティーネットでありまして、地域限定でここだけ雇用保険の給付金額を上げますとかいう話は、やはり無理ですよね。ですから、いわばルールを変えて労働市場を柔軟化していく、しかしながら、そのために発生する拡大したリスクについては、その特定の地方自治体の住民が背負えというのは、やはり非常に均衡を失した話ではないかと考えるわけであります。

 そういう意味で、仮に、雇用を柔軟化する、いわばデンマークやオランダ等のモデルを日本でも追求していくということであれば、これは、地域限定でできるところからやっていくということではなくて、やはり国全体の社会のモデルというものを考えて、柔軟化に伴うリスクの拡大に対してそれをどのようにカバーするかという国全体のセーフティーネットの議論を同時にしていかなければならないだろうと思います。

 その点で、雇用や医療等、国民の生活に密接にかかわる分野に関して、地域限定で規制を緩和して競争原理にさらす、あるいは利益追求をもっと拡大していくということになりますと、特区というものは、いわば基本的人権を保障しない、法律の保護外の無法地帯あるいは番外地をつくるという結果になるのではないかということを私は大変懸念しているわけであります。

 全体として、もちろん経済の活性化は大いに結構でありますし、私もデンマークモデルについては日本にとっても非常に参考になるものだと。観念的に規制緩和は悪だという議論はするつもりはありません。

 しかしながら、一方で、競争を促進してリスクを拡大するのであれば、やはりそれに対応するセーフティーネットについてもバランスをとって議論をしていただきたいということを再度申し上げて、私の意見を終わりといたします。

 ありがとうございました。(拍手)

2013.01.10 Thursday 19:00

政党政治の危機をどう乗り越えるか

1 政権交代の帰結

 1116日に野田佳彦首相が衆議院を解散し、政権交代の意義と民主党政権の成果を問う総選挙が始まった。9月の内閣改造を見れば野田政権の弱体化は明らかで、解散は時間の問題であった。民主党にとっては、来るべき総選挙で政権交代の意義と限界を明らかにした上で、今後の課題を明確にし、民主党政権の継続か自民党政権への回帰かを問う論争の枠組みを作ることが急務であった。11月のはじめ、そうした危機感を持つベテラン議員の依頼を受けて、私は政権の評価と政策の基軸を明らかにする文書を起草する作業を始めようとしていたところであった。突然の解散は、政権交代の意義について自ら国民に語りかけ、選択肢を整理する機会を放棄したことを意味する。解散に至る経緯と、メディアの報道、評価の仕方を振り返ると、政権交代が竜頭蛇尾に終わった理由が浮かび上がってくる。

 改めてこれまでの経過を要約しておこう。1112日の週明けから、読売、毎日などに早期解散の観測が流された。これに対して、民主党の常任幹事会は党の総意として早期解散反対を表明した。しかし、14日の党首討論で野田首相は衆議院の定数是正と議員定数の削減を自民党の安倍晋三総裁に呼びかけ、協力するなら16日にも解散をすると明言した。安倍総裁は解散時期の明示に戸惑ったが、定数削減の提案を党に持ち帰り、協力を決定した。翌日の新聞各紙では、野田首相が安倍総裁を「一発で倒す」(朝日)、「虚を突く」(毎日)などと報じ、社説も解散の決断を支持していた。15日からの短時間のうちに民主、自民、公明の三党の合意により、特例公債法、「0増5減」の定数是正が国会で成立し、16日午後に衆議院が解散された。

同日午後6時から野田首相は記者会見を行い、民主党が目指す5つの基本政策を発表し、自民党との対決姿勢を明確にした。5本柱とは次の通りである。1.国民負担による持続可能な社会保障の実現。2.経済のイノベーションと対外開放。3.2030年代に原発ゼロを実現。4.穏健で現実的な外交。5.世襲政治の否定などの政治改革。

民主党議員のほとんどが即時の解散に反対したのは、単に延命したいからだけではなかった。選挙での強い逆風が予想される中、自民党あるいは第三極と戦うための争点と論理を準備しなければ戦いにならないという焦りが共通していた。13日から15日にかけて私は数名の民主党ベテラン議員と会ったが、野田の独走を「乱心」と評する者や離党を決意した者など、伝わってきたのは旗印のないまま解散に突入する野田への当惑や反発ばかりであった。

野田が記者会見で示した5本柱は、TPPを除いて、私のような社会民主主義系の学者が民主党に提言してきたものであった。野田が語気を強めて自民党の原発持続、公共事業乱発への回帰を批判するのを聞いて、これで対決の構図ができたかと少し気を取り直した。しかし、メディアの注目度は低く、解散そのものを伝える報道の洪水の中に沈んだ感がある。野田は脱原発を明言したが、脱原発を目指すまじめな議員の離党を止めることはできなかった。

まさに、野田が犯した誤りは、選挙に向けた手順の逆転であった。5本柱は記者会見で発表するのではなく、党首討論で安倍総裁を相手に放つべき弾丸であった。政策論争で攻勢をかけた上で、早期の解散を打ち出せば、選挙戦の争点は明確になったはずである。また、解散の後に良識的議員が離党することも防げたはずである。この手順逆転こそ、民主党大敗の最大の原因となるであろう。

世界 2013年1月号

続く


2012.07.23 Monday 14:01

思想のない政治という実験

  人がいつもは当たり前と思っている秩序が、どれほどゆがみ、虚偽や不公正に満ちたものであるかを知ることは難しい。そのゆがみを最初に暴き、目の前に突き付けた者は、感謝されるよりも、迫害されるものである。現代日本において自民党以外の勢力が権力を担うことはコペルニクス的転換であった以上、天動説に固執する人々から感情的反発を受けることは必然であった。もちろん、民主党の政治家自身が新しいパラダイムにもっと強い確信を持ち、もっと巧みに人々を説得していればという悔いは大きい。それは後で検討するとして、日常秩序のゆがみと、政財界やメディアに蟠踞する天動説信者の実態を明らかにしたことこそ、民主党政権の功績である。

 選挙において国民が新しい政策体系を選択し、その意思表示に基づいて権力の担い手と政策が変化するということは、ほとんどの日本人にとって初めての経験であった。二〇〇〇年代の構造改革の結果、日本財政の再分配機能は著しく低下していた。「生活第一」の旗印の下、子ども手当や高校無償化などの生活支援政策を取ったことは、こうした社会の矛盾を是正するための的確な対処法であった。

 もちろん、天動説の信者はこうした政策に対して「バラマキ」という非難を浴びせる。しかし、多数の人々に政策的恩恵を及ぼすことをバラマキと称するならば、政府による再分配は所詮バラマキである。自民党政権時代には政治家や官僚にコネのある者だけがその恩恵に浴していたが、民主党はそれを公明正大に、客観的基準に則って行った。これは社会保障の観点から見れば、大進歩である。

 ついでながら、現代日本の最大のバラマキは年金である。総額五〇兆円、うち一〇兆円は財政資金の繰り入れ、つまり税金による贈与である。財政からの繰り入れだけでも子ども手当予算の四倍である。本誌の読者には年金暮らしの方も大勢いると想像するが、その方々には自分がバラマキの受益者であることを自覚したうえで、民主党政権の政策を批判してもらいたいものである。

 民主党政権の時期に福島第一原発の事故が起こったことは不幸中の幸いであった。この時期だったからこそ、不十分ではあっても、原発を推進した政官業の罪業が明らかになった。また、民主党政権は脱原発という課題を曲がりなりにも掲げ、再生エネルギーの拡大が始まった。

 天動説の信者は、時代遅れの、まさに既得権の塊である原子力発電というシステムを守るために、民主党政権にあらゆる攻撃を企てた。東電幹部や経産官僚の無能は不問に付し、政府首脳が出しゃばっただの怒鳴っただのと、問題の本質と無関係な中傷がメディアに踊った。政治学の教師にとっては、アイゼンハワーが「軍産複合体」という言葉で描いたもの、あるいは丸山真男の言う「無責任の体系」を説明するうえで、格好の素材を提供してもらっている。このように、民主党政権の挫折は、天動説が信奉している世の中の秩序、及びその根底にある岩盤の実態を少しではあるが、明らかにしたのである。

 私の本意は、民主党の政治家を免罪することにあるのではない。変えるべき秩序が強固であればあるほど、変革を達成するためには、目指すべき方向に関するゆるぎない信念と、実践における周到な仕掛けが必要とされる。その点で、民主党の政治は児戯に等しいものであった。何よりも、民主党は自民党に伍する政党になるために様々な要素を取り込み、結局、「自民党ではない」という否定形のアイデンティティしか持てなかった。野田佳彦首相など、この型のアイデンティティの化身である。もちろん、その非自民は実体としての自民党の否定であって、機能における自民党的な発想や行動様式を否定したものではない。

 まとめて言えば、民主党政権とは思想のない政治の実験であった。呉越同舟の民主党を束ねるために、マニフェストなる舶来品が珍重され、個別の政策を具体化することが政権運営だという錯覚をみんな持ってしまった。理念と思想が共有されていれば、目標実現のために財源が足りなくなった時、国民を説得し、負担の共有を提起できたはずである。思想があれば、意想外の原発事故が発生した時にも、理非曲直を明らかにすることができたはずである。技術的失敗ではなく、思想戦における敗北と総括するところから、政治の次の段階が始まる。

 野球の喩を使うなら、民主党政権の現状は、初めて甲子園のマウンドを踏んだ一年生エースが自滅し、大敗したようなものである。この経験をかみしめ、未熟な選手たちが自らを鍛え直し、来年もう一度甲子園のマウンドを踏めるかどうかに、日本の政党政治の将来がかかっている。民主党がそのまま生き残ることは難しいとしても、政治家がこの経験を活かして次の政治主体を立ち上げることにつながれば、民主党政権は無意味ではないというべきである。

文藝春秋8月号


2012.07.11 Wednesday 12:54

7月11日行政学資料

 7月11日行政学の資料です

2011.10.14 Friday 16:11

近況

  9月後半から、外国出張、政治学会報告、そして新書の原稿執筆で、文字通り目の回るような忙しさでした。昨日ようやく新書の原稿を書き上げて、やれやれです。新書は、来年1月に出る予定です。
 というわけで、しばらくさぼっていました。

2011.09.15 Thursday 18:11

2011年度行政学会報告

 政治学会共通論題ペーパーで注記した、2011年度行政学会報告草稿です。

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